崇徳院

すとくいん

 出入りの大家に呼ばれて熊五郎が行くと、若旦那の病気が重く、医者は気病みに違いないから、悩みを取り除いてやれば治るとの見立て、旦那と番頭が問いただしたのだが、内気な性分で答えない、ようやく心安い熊五郎にならといい出したのだという。
 離れの病床で若旦那が打ち明けたところによれば、小僧を供に、上野の清水観音へ参詣したとき、茶店で同席した女中連れの美しいお嬢さんが、立ち上がりざま落とした茶ぶくさを拾って上げた礼に、さらさらとしたためた短冊を残して去ったのだが、その歌こそ、「瀬を早み岩にせかるる滝川の割れても末にあはむとぞ思ふ」という、崇徳院の上の句、以来面影が目先を離れず、悶え死ぬばかりだという、切なくも古風きわまる恋煩い。
 聞いた旦那は早速相手を探してくれと無理をいう。町名も名前も分からないのに、ほうびに熊五郎が今住む三軒長屋をくれる、借金も棒引きにしてやると強要された上に、大乗り気になった女房にも尻をたたかれて、やむなく聞き込みをはじめるが、「この辺に水の垂れるのありませんか」では効果はなく、女房の入れ知恵により、毎日毎日手弁当持ちで巷の情報センターである湯屋や床屋へ寄り、崇徳院の上の句を朗詠する。
 ある日、肌はかさかさ、顔はひりひり、半死半生でたどり着いた床屋で、「瀬を早み」をやっていると、入ってきた職人が、お店《たな》のお嬢さんが恋煩い、相手は上野清水で会った若旦那とのこと、お店が出す百円の賞金に、勇んで探しに出たものの、崇徳院の歌しか手がかりがなく、難渋していると愚痴をこぼす。
 「三軒長屋…」と胸倉を取れば、相手も「百円野郎…」ともみ合いになり、鏡が割れてしまう。怒る床屋に、「心配するねえ。われても末に買わん(弁償しよう)とぞ思う」──。

 崇徳院は、第七十五代天皇として在位十八年、永治元年(1141)近衛天皇に譲位し、父鳥羽院の「本院」に対して、「新院」と呼ばれたが、保元の乱で後白河天皇軍に破れ、剃髪して仁和寺に入ったのち、讃岐に流されて没した。臨終まで憤怒の相やわらがず、髪も爪も伸ばしたままだったという。
 『詞華集』巻七所載のこの歌は、『小倉百人一首』第七十七番にも入っている。「早み」の「み」は、同じ百人一首にある「苫《とま》を荒み」「風邪をいたみ」の「み」で、「──ので」の意。政争敗退の苦悩と憂愁の反映を見ることもできないではないが、そうした醜悪な現実を離れたところから生まれた、純粋な恋歌としても秀逸であり、百人一首ベスト五に入る名歌という評価もある。
 この噺は、上方落語中興の祖、初代桂文治の作が、祖型だということになっている。見染めの場所は、大阪の生玉神社か高倉稲荷、または京都の清水観音の境内、人捜し役が相手の人捜し役ともみ合って壊す器物は、瀬戸物屋の商品、落ちは崇徳院の下の句、または、「人徳(仁徳天皇)のあるお人やなあ。場所が高津(高津神社)やさかい」で、これを移植し見染めの場所を上野清水、若旦那側の使いを本屋の金兵衛、お嬢さん側の使いを鳶頭にしたのが、江戸・東京版の『皿屋』(別題『花見扇』)だというのだが、同工異曲の噺は、江戸系にも古くからあって、先方の骨董屋の屋号が「皿屋」となっている上に、この話自体がそっくり、人情噺『三年目』の発端だったのだという。
 『皿屋』の方は、落ちがなくて、人情噺風に結ぶ型、「苦しい。離せ」「離すもんか。合わせて(結婚して)もらうんだ」と落とす型、皿屋敷伝説につなげ伸ばし、御飯の手向けを望むお菊の幽霊が、「皿(腹)がへりました」というのが落ちになる型などがあるが、現在ではほとんど演じられない。
 戦後専売の感があった、三代目桂三木助(昭和三十六年没)の演目は、題名も落ちもいわば上方系だったが、設定はむろん江戸系で、見染めの場所も上野清水にしていた。
 志ん朝の『崇徳院』は、おおむねこの三木助流を踏襲しているが、決してなぞりではなく、自家の工夫を随所に加えており、報告を受けた旦那の捜索依頼で、熊五郎がすぐに辞退をするのではなく、相手の正体を確かめない粗忽を叱られて、離れへとって返し、ぼうっとして聞きそびれたという若旦那を歯がゆかり、あきらめてほかの女にしろとすすめては、若旦那に泣き出されて、再度母屋に報告するというふうに、詳しくなっている。
 「どうしよう」と吐息する旦那に、「そうすねえ。まあ、しかたがねえから、このまんま静かに息を引きとってもらう……」といって叱られる、勇みな職人ぶりも、十分におもしろいが、恋にやつれた若旦那の色気は、まさに出色である。「大きな声を出しちゃ……いやだよ」「ほらァ……笑ったじゃないかァ」もかわいらしいが、決定的なヒットは、お嬢さんの美貌の形容に、水の垂れるようなといったのを、みかんを踏んずけたようなと、熊五郎に混ぜ返されて、怨ずるがごとく憤るがごとく、甘ったれたなよなよ声でなじる、「ちがうよゥ。元気ならぶつよ、もうゥ」で、「元気なら」が、なんともおかしい。歌舞伎には、突っころばしの二枚目は、三枚目の心で演じることという口伝があるが、現在こんなにおかしい突っころばしは、歌舞伎にもいないだろう。
 熊五郎の帰宅を迎えた女房も、「しっかりやっとくれよ、お前さんにも運が向いてきたんだよ」と励ます三木助流より、もう一段たくましい女で、手がかりがないとは大変だといったそばから、三軒長屋のほうびの話しに、「行っといで行っといで、行ってきなさい!」と大乗に乗る。生活エネルギーにみちみちた、女房族の面目躍如である。
 この分では、若旦那よりおれの方が先に行っちゃうとこぼしながら、湯屋と床屋を回り始める。混んでいる店に行き当たり、喜んで一服してから、やおら「瀬を早みィ」ととりかかる。このときの、「そろそろやってみるかな」というつぶやきもたのしいが、「滝川のォお」という語尾の生み字の引きかたが、新春宮中歌会始めにおける、朗詠の調子をしのばせて、腹をよじらせる。
 百人一首のかるたとりが、隆盛だった頃は、「天智天皇〈秋の田の〉」とか「陽成院〈つくばねの〉」とか「在原業平〈ちはやぶる〉」とか、歌人名からつづけて詠んだり覚えたりする風習があったために、歌人名は耳になじんでいた。だから、落語『千早振る』の八五郎が、このごろ「千住天王あきれたよ」てな文句が書いてある役人衆とかいう遊びがはやっているとこぼしても、『千早振る』の前段に置かれていた隠居が「つくばね」の珍解釈をするくだりを、独立させて演じる場合、演題を『陽成院』としても、よく通じて笑いを誘ったのである。


『新選独演会』

Last modified: Sun Apr 21 23:04:36 2002