お茶汲み

おちゃくみ

 若い連中が寄り合えば、金もないくせに色ばなしがお定まりだが、中で珍しく工面《くめん》がよかったかして昨夜吉原へ行ったやつが、自慢顔で披露することによると、こうである。
 引け過ぎの見世先で、甘味《あまみ》と宇治(銘茶)であっさりとお引けはいかがとすすめられ、張り見世の上手《かみ》から三枚目の女を見立てて、二階の引き付けで待つ間ほどなく、上草履の音をさせてやってきた女は、障子を開けてこっちの顔を見るなり悲鳴を上げて逃げ去る。やがて戻ってきたものの初回でもあってぎこちなく、すぐにお引けとなって部屋へ通ると、最前の無礼をわびた女が、これにはわけがと打ち明けばなしをはじめる。
 静岡の在の若気のあやまちに清三郎という男といい仲になり、親に許されず、手に手を取って駆け落ち、夫婦住み込みで働ける場所がなく別々に奉公をするうちに、たまの逢瀬《おうせ》に女が示したのが、まとまった金を作るには苦界へ身を沈めるほかはない、その金を元手に商売をはじめ、うまくいったら迎えにきてくれという悲壮な案、男がお前にそんなまねはさせられないと拒んでも背に腹は換えられず、ここにつとめたのが三年前の夏だった。
 離れたてこそ日文夜文《ひぶみよぶみ》に慰め励まし合ったが、半年たつかたたないかに男の便りが間遠になり、ついにはなしのつぶて、早くもほかに増す花か、固い契りも忘れて薄情なと様子を探れば、男は病の床に臥《ふ》しているとのこと、飛んで行けない籠の鳥、茶断ち塩断ちの信心のかいもなく、男ははかなくなってしまう。問い弔いも後追い死にもままならず、さりとてあきらめもつかずに、嘆き暮らすばかりだったところへ、初回の見立てで引き付けへ行けば、死んだ清三郎に生き写し、つい取り乱してと、女は述懐を湿り声で結ぶ。
 哀れを催してなだめると、女は聞いてもらえてうれしい、よほど深い縁なのだろう、仏はかわいそうでも死ぬ者貧乏、これからは清さんに換えてお前さんで男の苦労をしなおしてみたい、来年三月年季が明けたら女房にしてくれないかと、乙な風情になってくる。
 でも女は先に老けるもの、男は薄情だからやがては見捨てられるのかと、早手回しの取り越し苦労で泣き出す始末。案に相違の上首尾にうれしくなったが、気づくと女の目の縁に黒い粒がある。はてほくろはなかったはずだがと見守れば、女は口説《くぜつ》ににさめざめと泣きながら、茶わんに指をつけては目を濡らしている。泣きぼくろどころか茶殻だったのである。
 あまりにいまいましく、ののしってやろうとしかけたが、せっかくもてているのにと考え直し、だまされたふりをしつづけていると、しげしげ通わせたい女はもてなしの限りを尽くし、とうとう一晩中寝かせなかったと、手柄にもならない戦果報告は締めくくられた。
 これを面白がった物好きが、見世は江戸二(江戸丁二丁目)の安大国《やすだいこく》、源氏名は田毎《たごと》と確かめて、早速明くる日、件の女郎をからかいに行く。二階の引き付けで待っていると田毎がきたので、障子が開いたとたんにこっちから大声を上げ、部屋へ通ってからさっき驚かせたことをわび、実はと切り出す。男女の立場を逆にしただけで、おきよという娘と駆け落ちしてと、物語の大筋をなぞり、女はわずらいついて死んだ、おれのために不憫なと嘆き、そのおきよと生き写しのお前とこうして出会うのも深い縁、契り合えればうれしいが、売れっ子のお前の心変わりが案じられてと、取り越し苦労を泣きながら訴えれば、聞いていた女郎がついと立つ。「おいらん、どこへ行くんだよ」「ちょいと待っといでよ、お茶汲んであげるから」──。

 所用をすませて帰国する大名との別れに、寵愛されていた都の女がさめざめ泣くところを、水で目を濡らす空泣きと見破った太郎冠者が、水を墨に取り替えて女に恥をかかせるという、能狂言『墨塗』に題材をとったのが上方落語『黒玉つぶし』、これを改作したのが『涙の茶』だといわれるが、さらにそれを東京へ移植したのが、廓噺の第一人者の栄光に、病毒で腰が抜け目もつぶれるまでの代償を払った、退廃美の耽溺者初代柳家小せん(大正八年没)だと聞けば、さもありなんとうなずける、ほろ苦く哀れな一編である。題名も、即物的な上方の『涙の茶』に比べて、『お茶汲み』とはなんともやるせない。「素枯れている」とは、こうした感覚をいうのだろう。
 この小せんに、四代目橘家圓喬に劣らず傾倒したのが、五代目古今亭志ん生で、むろん『お茶汲み』もそっくり継承している。『お直し』にも充満する、笑いながらもの悲しくなるブラックユーモアの濃密さが、他の追随を許さない志ん生廓噺の「大人の味」というもので、あれほどの多量を誇った六代目三遊亭圓生の演目にすら、これが入っていないあたりにも、道場の公式試合ならともかく野天の真剣勝負ではかなわないと、自信家の圓生に舌を巻かせた、志ん生落語のすごみが、うかがえそうである。その点『お茶汲み』は古今亭のお家芸といっていいかもしれない。
 寄合いばなしに戦績を披露する男から、悪のりしていたずらに行く男へと、主役が交代する上に、前半の主役の報告では、女郎の述懐が間接話法で入れ子になっていたり、後半の主役とは、女郎が直接話法で相手をしたりという、次元の移動する構成だから、展開が地味な割りには、技能的にやさしくない噺である。
 年をとっていても「若い者」と呼ばれる妓楼の男衆は、客を引く見世番の妓夫《ぎゆう》(及《ぎゅう》・牛太郎)、遣手(おばさん)の下で二階をとり仕切る二階番、夜具を運び整える床番、徹夜で警戒に当たる不寝番《ねずばん》(油差し)、未払いの遊興費を取り立てる下がりとり、ひいき客の勧誘におもむく文使いなど、さまざまな分担があるが、この妓夫から二階番への連携作業がしっかりとらえてあるから、聞き手は相方《あいかた》対面所である二階の引き付け座敷へと混乱なく誘導される。。安い客と踏んですぐいなくなる遣手が、甘味とともに運んでくるのが宇治であることも、「茶」にまつわる落ちへのさり気ない伏線になっている。
 いたずらのこしらえばなしの途中から、女郎の合いの手がいかにも小ばかにしたような声音になるのも、水田の升目ごとに映る月影を表した田毎という源氏名にふさわしく、したたかな手練れ者が薄ら笑いを浮かべた顔まで、まざまざと思い描かせる。
 一皮めくれば、嘘だらけの生活の知恵を植え付けられた、痛ましい環境被害者の病体が顕れもするのだろうが、そうした野暮な社会派ドラマの分析などせず、おかしみの中に哀れを漂わせるのが、洒落た廓噺の腕というもので、そのあたりの着実な悠々たる年輪の増加に、正統派志ん朝の今後が大いに期待される。


『新選独演会』

Last modified: Sun Apr 21 23:03:28 2002