ごく睦まじい仲の女房が、不治の病床についている。今日も亭主は優しく、快方に向かっているからと慰め、薬の服用をすすめるが、近ごろ薬をひそかに捨てている女房は無駄だからと拒み、なおもすすめる亭主を、「あなた、私に隠していらっしゃる」と恨む。往診の医者が去りぎわに死期の近いことを告げたのを、聞いてしまったというのである。
亭主はうろたえを隠し、あんな見立てちがいをする藪医者は替えるからと励ますが女房は聞かず、覚悟はしているものの、自分が死んでからあなたが後添いをもらって、私のようにかわいがることを思うと、それが心残りで死ねないのだと訴える。お前の万一のことがあったら生涯独身を通すと誓ってやっても、両親や親戚にやかましくすすめられれば断り切れないだろうというので、亭主は窮余の一策、やむなく再婚した場合は婚礼の晩に幽霊で現れろ、後添いは驚いて里へ逃げ帰る、度重なれば嫁のきてがなくなるという。では八つの鐘を合図にと約束し、安心したものか女房は息を引き取った。
泣く泣く野辺の送りをすませたが、亡妻の見込み通り百箇日たつかたたないかで、周りがうるさくなり、亡妻にすまないからと断っても一笑に付されて、のっぴきならず、なかば自棄で応じると、資産家で男前、かねてから思いを寄せている娘も多く、縁談がまとまって婚礼もめでたく挙行された。その晩床杯もすみ、後妻を先に休ませて亭主は寝もやらずに待ったが、合図の八つの鐘が鳴っても、先妻の幽霊は現れない。
十万億土からともなれば、遅れるのかもしれないと、以後毎晩待っても現れず、ばからしくもなってくれば身近の後妻に情が移るのは当然、やがて懐妊あってかわいい子供もできる。月日の流れは早く三回忌、死にあと[#「死にあと」に傍点]を承知できた後妻ともどもねんごろに法事を営み、子供を連れて墓参りもすませた晩、ぐっすり眠った亭主がふと目をさます。子供が這い出したのも知らずに夜具をはだけて寝ている後妻の姿に、先妻が子供を産んでいたらどうだっただろうと、そぞろに偲んでいると八つの鐘、行燈が暗くなって生臭い風が吹き込んでくる。障子に髪の毛のふれる音に、枕屏風を引きのければ、みどりの黒髪をおどろに振り乱した先妻の幽霊がいて、約束が違うと恨みをいう。
理不尽なと、亭主は怖さも忘れて、お前こそ約束を破ったではないかとなじる。先妻は臨終の際の剃髪の風習を持ち出し、「坊さんのまま出たんでは、あなたに嫌われると思って、毛の伸びるまで待ってました」──。
享和三年版『遊子珍学問』所載の小咄が原拠。同じ原話から出た『茶漬け幽霊』は、後妻が外出した日中、亭主が茶漬けを食べているところへ、先妻の幽霊が現れて、なぜ夜こないのだとなじられ、夜はこっちが怖いと答えるのを落ちとする上方落語で、この一段前にはいる。髪が伸びるまで待っていた旨のいいわけも、『三年目』の落ちと同様だが、先妻が死ぬとすぐ後妻を迎え、あれでは先妻も浮かばれまいと噂されるような男に描いているのに対して、『三年目』の男は、情愛こまやかな男になっていて快い。
それもそのはず、落語『崇徳院』と同じ筋立ての人情噺(落ちがついて落語にもなっている)『皿屋敷』(別名『花見扇』)の後半が、独立したものなのだそうである。
『鰍沢』『双蝶々』などが絶品だった、四代目橘家圓喬(大正元年没)が十八番としたあとは、五代目三遊亭圓生(昭和十五年没)が、ほかに手を出す者がないほどの好演で、これを継承した六代目(昭和五十四年没)も、早々と自家薬籠中のものとしている。名作であるわりに、やり手が少なかったのは、そのせいであろう。
ただし、同じ六代目圓生でも、演出に変遷があり、青蛙書房版『圓生全集』所載の速記では、五代目所演を継承した人情噺後半部説の片鱗をうかがわせる、恋煩いのマクラをふっているが、筑摩書房版『古典落語』第二期第二巻所載の速記では、亭主が病床を見舞うところからずばりと入るという風に、簡潔になっている。その代わりには、くすぐりが少なく笑いが乏しい噺であることを意識してか、幽霊の滑稽を冒頭で語っているのだが、志ん朝は幽霊の滑稽を避け、恥じらい・遠慮・こだわりなどのさまを描いてマクラにしている。適切な配慮で、志ん朝の卓越した感性がうかがえる。
女房が医者の宣告にふれたとき、名医だと思って呼んだが、ひどい藪だったとののしる。あさましい暴言だが、あの人ばかりが名医ではない、ほかにもいい先生がいるという良識的な慰めよりも、亭主の情愛の熱さが、よく伝わってくる。女房の後妻への嫉妬が、攻撃性に満ちたヒステリックな妄念ではなく、私にしてくれたように優しくするのかという予想であるところにも、この噺の名作たるゆえんがあるのだが、亭主が強く否定しても、自分の思い描く状況にさいなまれ、「ああ……ああ……ああ」と悶えるのも、哀れに色っぽい。いかにも、のちの美しい幽霊が出てきそうな女になっている。
再婚の縁談への対応の誠実さ、後妻にきた若い女の気立ての良さの表現も的確で、子もなさずに若死にした先妻を思いやるくだりも、志ん朝の描写の着実さによっていよいよ深みを増す。去る者日々に疎し、愛の誓いのむなしさ、人間のもろさ、男女のいじらしさについて、なんだかほろほろと泣けてくるような、おかしくも切ない落語ではある。死んだとき坊さんにしたというのは、在家の俗人がにわかに仏弟子となって弥陀の浄土へ渡るために、得度受戒したことにするという仏教に基づく方便的な風習で、髪剃《こうぞ》りともいい、縁者が念仏称名しながら一剃刀ずつ当てる。若い女をくりくり坊主にするのはかわいそうだと、ほんのまねごとに剃刀を当てる方便も許されていたようだが、そのくらいのことはしないと、焼き場では変死体と見なして受け取らない。『らくだ』のような貧乏弔いでも剃髪するのは、そのためなのである。この先妻はくりくり坊主にされたのだろう。
三代目三遊亭圓遊(俗に初代─明治四十年没)の速記に、「このとおり島田髷に結って出るまでには、ちょうど三年目でございます」とあるのが、地髪で髷を結っていた時代(明治二十四年)のリアリティがでていておもしろいが、現代では冗長すぎ、志ん朝のように簡素な落ちの方がいい。
Last modified: Sun Apr 21 23:01:09 2002