栄華太平の夢も破れた明治維新、江戸の市中府下は物情騒然、諸国から入り込んだ浪人者が徘徊《はいかい》する。徳川再興に挺進する真剣な者もいたが、どさくさ紛れに荒稼ぎを志すうろんな手合いもあり、義挙の軍資金調達などと唱えて、夜な夜な追い剥ぎや辻斬りを働く。
ことに多く出没したのは、懐のあたたかい吉原行きがよく通る蔵前通りで、来かかった駕籠を呼び止めると取り囲んで抜き身を突きつけ、「我々はゆえあって徳川家にお味方をいたす浪士の一体、軍用金に事欠いておる。さあ、身ぐるみ脱げ」とおどす。
そんな中をかいくぐって、見栄に吉原通いをしてのけたい脳天気な男が駕籠宿へ行って注文すると、行く先を聞いた親方は、暮れ六つ以後ははご勘弁願いますという。尻腰《しっこし》の立つ若い衆がいるのだから息杖を振り回して突っ切ればいい、ただの追い剥ぎながらともかく浪人者が徒党を組んでいいるので一組から逃れてもつぎの一組につかまる。毎晩出るとは限らないだろう、必ず今夜も出る、それなら駕籠賃を売払うかし酒手もはずむ、でも手前どもの駕籠でまちがいが起きたらのれんに関わると押し問答の末に、いらだった男は追い剥ぎが出るところまでやれ、出たら駕籠を放り出して逃げてもいいからと強要する。
「向こうだってなにも駕籠ぐるみもってこうってんじゃねえんだろう?」「ええ、駕籠はまあもってきませんなあ」「だったら明日とりにきねえ。入れものは空いてるよ」「そば屋だね、まるで」と、親方が辟易していると、陰で聞いていたのが一番血気盛んな若い衆二人で、客の心意気に胸を打たれて涙ぐみ、ぜひともお供をすると申し出る。男は喜んで駕籠賃・酒手を前払いすると、着ているものを脱いで畳み、これを駕籠の座布団の下に敷き、紙入れ・煙草入れなども隅に押し込んで、下帯一つでどっかりと座った。
若い衆はいよいよ勇み立ちかけ声も軽やかに走り出す。蔵前通りを榧寺《かやでら》の手前にさしかかると、待ち伏せている群が見える。若い衆は男に知らせて進むうちに、「待て!」と飛び出してきたから、駕籠をおいて逃げてしまう。抜き身を下げた覆面の十五、六人が駕籠を囲む。「我々はゆえあって徳川家にお味方をいたす浪士の一隊、軍用金に事欠いておる。身ぐるみ抜いておいてまいれ。中にいるのは武家か町人か。なまじなまなか腕立をいたすとためにならんぞ。これへ出い」とすごんだが返事がない。龕灯《がんどう》を近づけ、切っ先で駕籠の垂れを跳ね上げると、中の男は裸。
「おお、もうすんだか」──。
安永四年(1775)版『浮世はなし鳥』所収の小咄が原話だが、さらに遡れば平安時代末期の説話集『今昔物語』の巻二十八第十六『阿蘇の史《さかん》盗人にあひて謀《たばか》りて遁《に》ぐるものがたり』がある。平安末期の京都もすこぶる治安が悪化していたが、切迫感と崩壊感は、維新動乱の江戸の方が格段に強い。
慶応三年(1867)十二月の王政復古の大号令、四年一月の鳥羽伏見の戦、三月の江戸開城の談判、四月の徳川慶喜の江戸退去、五月の彰義隊の戦とつづく激変の中で殺傷をくり返したのは、正規の征討軍・幕府軍だけではなかった。薩摩藩の江戸攪乱工作隊だった御用盗は、もっとも組織的な集団だが、佐幕派の浪士と賞する野盗も、追い剥ぎ・辻斬りに押し込み強盗にと横行していいる。市民はおびえ、近在に縁辺のある者は、老幼婦女子を疎開させ、江戸を離れられない者は、日暮れ早々戸とを閉めたものだった。
芥川龍之介の小説『お富の貞操』には、この頃の不安な状況がよく描かれているが、『蔵前駕篭』も、この時期に設定したのが功を奏して、落語にはまれな社会的緊張があり、さびの聞いた噺になっている。武士に対する江戸っ子の反抗を扱ったものに、『たが屋』『首提灯』などがあるが、この時期の虚無的で殺伐な世相を反映したものには、『首屋』という珍しい落語がある。
『蔵前駕篭』は、四代目橘家圓蔵(大正十一年没)の十八番だったそうだが、立て板に水の能弁で『首提灯』が絶品だったといわれた圓蔵だから、さぞよかっただろう。弟子の六代目三遊亭圓生(昭和五十四年没)のほかに、三代目三遊亭金馬(昭和三十九年没)・五代目古今亭志ん生(昭和四十八年没)・八代目林家正蔵(彦六─昭和五十七年没)が継承した。
もともと短い噺なので、それぞれ個性を生かしてふくらませ磨き上げていたが、志ん朝演出では、客の男と駕籠宿の親方のやりとりがくわしい。たとえ一組から逃れてもつぎの一組につかまるという、断り口上ももっともだし、女の喜ぶのを思うと体かうずうずしてくる、追い剥ぎなんかで吉原通いを休むようじゃ、先祖の助六さまにすまねえという、脳天気な勇みようもうれしく、また親方の報告により、行く気になった若い衆の状態というのが、胸打たれて涙ぐんでいるというばからしいものであるのも、世は末世に及ぶといえども、江戸っ子いまだ滅びず、ありがたやかたじけなやである。
大手の駕籠屋は、浅草茅町の江戸勘、日本橋大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋のほかに、吉原の平松、浅草の伊勢屋、新宿大木戸の高砂屋などがあった。駕籠賃については、日本橋辺から吉原大門までが金二朱(銭八百文)、三枚なら三朱、四枚なら一分、本郷から市ヶ谷までが百文、浅草橋目付前から神田明神下までが夜駕籠四百文、市ヶ谷御門外から日本橋玄冶店までが夜駕籠七百文、六郷川前から観音(鮫洲《さめず》観音)前までが夜駕籠五百文、飛鳥山から柳橋までが二朱と二百文などという記録が残っている。この上に、一割りや二割りの酒手は乗せなければならないし、職人の一日の手間賃三百二十四文と比べても、決して安くはなかったことが分かる。
蔵前通りは、浅草御門(現浅草橋)から浅草寺雷門へ向かう陸羽街道で、右側に幕府の米蔵が並んでいた。米蔵の前だから蔵前の地名なのであり、御米蔵と敬って呼びもしたので、御蔵前という敬称もある。左側には札差商人の大店が並んでいた。昼間は大いに賑わうが、夜は旅人や吉原通いや猿若町三座の芝居見物の往来ぐらいしかなく、世情不穏ともなれば、片側町の大戸の閉まるのも早まって、追い剥ぎの名所と化した。榧寺は蔵前八幡の先、浄土宗池中山正覚寺、境内に榧の大木があったところからの俗称である。
Last modified: Sun Apr 21 22:58:22 2002