黄金餅

こがねもち

 下谷山崎町に住む乞食坊主の西念がわずらいつき、床を離れられなくなったので、同じ貧乏長屋の壁隣にいる金山寺味噌売りの金兵衛が見舞うと、病人は徹底したしわんぼう、医者にもかからず、薬は飲まない。
 体に精をつけるためにでも、食いたいものがあれば買ってきてやろうという申し出に、それではあんころ餅をと答え、代金は立て替えてくれと頼む。
 どっさり買ってきてやったところ、人に見られていては食えない性分だからと遠ざける。自宅に帰った金兵衛は、腹立ち紛れに壁の穴から覗く。
 西念が餅から餡を取りのけ、懐から出した胴巻きをこけば、山のような一分金と二分金、これを一つ一つ餅に詰めては飲み込みはじめ、すっかり腹へ収めると苦しみだしたので、金兵衛がとび込んだが、介抱も間に合わず、西念は悶絶する。
 身寄りがないので、金兵衛の墓に葬ってもらいたい旨、苦しい息の下から頼んで死んだと家主には報告し、通夜をしてから明朝野辺送りをしては、仕事がつぶれて長屋中が暮らしに困るからと、今夜中に運ぶことにする。
 早桶代用の菜漬けの樽に新仏《にいぼとけ》をつめ、今月と来月の月番がさしにない、長屋連中が付き添って、はるばると麻布絶口釜無村《あざぶぜっこうかまなしむら》の木蓮寺に着く。
 声をかけると、和尚は庫裡で茶碗酒を食らっていて、不承不承に本堂に入ったが、袈裟は麻の風呂敷、払子《ほっす》ははたき、鈴《りん》は茶碗、木魚は丼、香は煙草盆にくべた茶の粉と煙草の粉、経文は「金魚金魚三《み》ィ金魚ォ」というすさまじい得度《とくど》である。
 ほかの者を先に帰し、焼き場の切手をもらい、庫裡から盗んだあじ切り包丁を懐に、金兵衛は樽を背負って行く。
 桐ヶ谷の焼き場では、先口がつかえているというが、すごんで押しつけ、腹のあたりは生《なま》焼けにしてくれと頼み、新橋へ行って夜明かしの屋台で時をつぶしてから立ち戻る。
 素人に骨上げはできないというのを、仏の遺言だからと火箸をひったくり、見たら目の玉を突っつくぞと背を向けさせ、あじ切り包丁で遺骨の腹をかき回して熱くなった金をごっそりさらいとる──。

 落ちがないのは、人情噺だからだが、人情の美しさを歌い上げたり、因果応報の精算をつけたり、旧来の社会通念に協調的なのが相場である人情噺としては、まことに異色である。しかも、宝暦年間の随筆に収録された逸品を原典とするこの奇談を、人情噺にまとめたのが、かの人格者とあがめられた三遊亭圓朝であるというのもおもしろい。
 勧善懲悪の倫理観から、後味の悪い噺と難色を示す向きもあるが、えてして世の中はこんなものさといった、落語の本質の一つでもあるブラックユーモアが脈打っていて痛快だし、悪行による成功を肯定してはばからないような、五代目古今亭志ん生(昭和四十八年没)の「この金をもちまして、金兵衛、目黒に餅屋を出しまして、たいそう繁盛をいたしました。江戸の名物黄金餅の由来という一席であります」という結びのすっとぼけた口調がなんともいい味でたのしかった。
 四代目橘家圓蔵(大正十一年没)が得意にし、その希代の能弁をいい立てで十分に発揮したと思われる速記も残っているが、志ん生は五明楼玉輔(四代目─昭和十年没)から習い、長い間あたためたのちに、十八番者に仕上げたという。
 マクラでの息を小出しにするところや「何時幾日《いついっか》棘《とげ》入り」と帳づけをするところ、壁の穴から覗きながら、金を餅の中へつめて金持ちとでもいうつもりか、と考えるところ、道順の終わりに「ずいぶんみんなくたびれた。あたしもくたびれた」と息をつくところ、焼き場で「焼かねえと手前を焼くぞ」とおどかすところんあどは、志ん生独創のギャグである。
 もらいためた金を、千住の女郎に色仕掛けで巻き上げられる『わら人形』の乞食坊主も、同じ西念という名で、やはり志ん生の十八番だったが、こういう底辺にうごめく人間の生活感が、志ん生話芸では飛び切り豊かだった。
 汚い寝床に伏す瀕死の病人から立ちのぼる、すさまじい妄執そのもののようなすえた熱《ねつ》くささが、ありありと感じられたのが、忘れられない。
 このライブの志ん朝は、そうした志ん生演出をよく踏襲している。次々に先輩巨匠の十八番ものに挑んでいる近年の志ん朝としては、もっとも従順な方の継承だといえないだろうか。
 しかし、むろん志ん朝独特の工夫は施されている。西念の人物紹介で、頭陀袋の両面が念仏と題目の兼用になっているというのにつづき、背中には十字架が描いてあるというのは、志ん朝の創作だろうが、キリシタン禁制の江戸時代としてはあり得るはずはないのに、何かありそうでおかしい。
 金山寺味噌は大豆・大麦を蒸して発酵させたものに、野菜を刻み込んだりしたなめ味噌のことで、現在もあるにはあるが、以前のように金山寺や金山寺屋とかいうだけで通るほどのなじみはなくなっている。
 そのために、「金山寺というなめ味噌を売って歩いております、金山寺屋の金兵衛という男」と紹介する。この辺が志ん朝の神経の細かいところで、文字で表記すれば冗長な説明のようだが、彼のなめらかな口調にかかると少しも冗長ではない。
 なめらかな口調といえば、大きな眼目でもある葬列の道筋の言い立てもみごとなものである。浄瑠璃の道行きの「所名《ところな》づくし」や浪花節の「道中づけ」などにも見られる、紀行文芸的な要素のある語り芸の聞かせどころで、長距離旅行の経験の乏しい当時の江戸の庶民にとっては、かなりの距離だった下谷・麻布間を徒歩でたどる、貧乏どむらいの道行の哀歓が、惻々《そくそく》と迫ってくる。
 現代の麻布は都心にさえ組み込まれ、ことに六本木界隈は国際的魔都とかいう歓楽境になっているが、当時の麻布ときたら、大寺院の末寺・下寺や武家屋敷が多く、鬱蒼《うっそう》たる大木の茂る土地だった。
 絶口という里名、釜無村という村名、木蓮寺(あるいは日蓮寺)という寺号、すべて架空のものだが、現南麻布二丁目と三丁目の間の坂に「絶江坂」という坂名があり、二丁目曹渓寺の南側あたりに「釜無横町」という俗称もあったそうだし、それはそれとしても、麻布絶口釜無村の木蓮寺とは、「弔いが山谷(吉原付近)と聞いて親父行き」に対する、「弔いが麻布と聞いて人頼み」という川柳があるほどだった、麻布の草深さを如実に感じさせる命名ではないか。
 この言い立ての結びで「あたしもくたびれた」という志ん生のギャグを、志ん朝がなぞっていないのは当然というべきだろう。あれこそは芸の年輪のなせる技であり、当代最高の才人志ん朝にしてなおかつ及ばない、話芸ならではの芳醇な境地なのである。
 いつの日か、「あたしもくたびれた」と志ん朝がつぶやき、その滋味に陶然となるだろうことを共通の期待条件としてファンが抱く、その出発点としてこのライブを踏まえる──、こうしたことも、伸び盛りの超大器の楽しみ方であっていいだろう。


『新選独演会』

Last modified: Sun Apr 21 22:54:16 2002