佃祭

つくだまつり

 神田お玉ヶ池(現千代田区神田松枝町界隈)に住む小間物やの次郎兵衛は大の祭り好きで、今年も佃島の住吉神社の夏祭りを見物に出かけようとすると、嫉妬深い女房に祭りがおしろいをつけて待っているのだろうなどと、嫌味をいわれる。
 振り切って出かけ、参詣と見物をすませた次郎兵衛が暮れ六に渡船場へきて最終船《しまいぶね》に乗り込もうとしたところ、若い女に懸命に引止められ、船に乗り損なってしまう。
 三年前、奉公先の金三両をなくしたいいわけなさに、本所一ツ目の橋から身投げをしかけたのを、次郎兵衛に助けられ、その後佃島へ嫁いできていた女だった。
 その節、名前も住所も聞き損なったためできずにいたお礼もしたいし、亭主は船頭だから船でお送りするという話に、一安心して女の家へ同道する。
 手厚いもてなしを受けるうちに外が騒がしくなったと思ったら、最終船《しまいぶね》が客を乗せすぎたため沈没したとの知らせ、つづいて渡船場は死人の山だと帰ってきた亭主は、女房の命の恩人の名前も住所もわからないので、神棚に「本所一ツ目の旦那様」と書いた紙を上げ、夫婦共々朝な夕なに拝んでいたのだという。
 こちらこそ命拾いをしたと喜んだ次郎兵衛は、女房のやきもちが気になりはじめもう帰りたいというが、こんな災害があったときだけにすぐ船を出すのはまずい、せめて九ツ(十二時)まではといわれ、腰を落ち着けて馳走になる。
 一方、佃島の渡し船の事故で乗客全員死亡と聞いた神田お玉ヶ池の長屋は大騒ぎ、次郎兵衛の女房は悔やみに駆けつけた人に、あたしをやきもち妬きだとからかうあなたが亭主を殺したようなものだと当たり散らす有様、早速坊さんを呼んで通夜が始まる。
 そこへ船頭に送られた次郎兵衛が帰ってきたので、一同はぎょっとなったが、かくかくの次第との説明にまずはよかったと喜んで、坊さんも陰徳陽報の例えを説いて立ち去り、めでたく一件は落着した。ところが、ばかに感動したのが与太郎で、翌日からどうにか算段した三両の金を懐に、弁当持ちで陰徳陽報の身投げ救いに歩き回る。
 へとへとになって、十三夜の月光が川波にきらめく永代橋へさしかかると、きれいな女が欄干から手を合わせている。これこそ身投げだ、しめたと抱きとめるが、女は歯痛で戸隠さまへ願を掛けているのだと怒る。身投げに違いない、袂に石が入っているという与太郎に、女は「石じゃあないよ、(戸隠さまへ)納める梨だよ」──。

 中国の奇譚異聞を収録した清《しん》代初期の『輟耕録《てつこうろく》』の中の一編によると思われる、文化十一年(1814)刊『耳袋』所載の話、および文化四年八月十九日の深川八幡の祭日に、永代橋の橋脚がこわれて数百人の溺死者を出した事件を合成してできたもの。
 この事件は、落語『永代橋(武兵衛《ぶへえ》ちがい)』や歌舞伎『八幡祭小望月賑《よみやのにぎわい》(縮屋《ちぢみや》新助)』にも採り入れられているが、この落語が場面を永代橋や深川でなく、佃島にしたのがうまい。
 『佃島』という全く別の小咄がある。ただし、原典は佃島でなく、『和《なぎ》だと思ふて沖へ乗出し、鱚《きす》の食ふ最中、俄にもやになり、東西真暗になり、風だん/\強く、昼夜の別ちもなく、むしょうに吹流され、やう/\陸を見付けて漕ぎよせてみれば、見慣れぬ人が蓑のようなるものをきて立ち居たり。釣人ども頭をさげ“私どもは日本人でござります。難風にて吹きつけられました。爰《ここ》は何と申す島でござります”かの男“こヽは大森さ”』と、安永四年(1775)刊『聞童子《きくどうじ》』にあるが、これを佃島になおした知恵がうなずける。
 佃島は隅田川河口の無人の島だったのが、天正年間あるいは慶長年間に、摂津(大阪)西成郡《にしなりごおり》佃村の漁師が移住、佃島と命名されたもので、石川島の南隣、築地鉄砲洲《てっぽうず》の陸地からわずか一町しか離れていないのに、風土は他国かと思われるばかり、家財調度に至るまで珍しく、別世界のようだと古い随筆にも書いてあるとおり、江戸人にとっては一異郷をなしていたからである。
 ここの漁師が漁に出る際の弁当の菜《さい》に、白魚などの小魚を醤油で煮付けたのが、佃煮の起こりであることはいうまでもあるまいが、島は昭和三十九年八月に佃大橋で陸地とつながり、三百年来の渡し船も廃された。
 佃祭は、島民が寛永年間に故郷から勧請《かんじょう》した、海運・漁業の守護神住吉明神の祭礼で、祭日は旧暦六月二十八・九日(現在八月六・七・八日)、氏子が八角の大神輿をかついで海中に入り激しくもみ合う、神輿洗いの行事で知られている。
 このときに演奏される佃囃子は、神田囃子・葛西囃子と並ぶすぐれた囃子、また、「吹けよ川風上がれよ簾《すだれ》、中の小唄(お客・芸者とも)の顔見たや」の『佃節』も颯爽とした俗謡であり、その三味線の手から出た下座音楽『佃』は、波のうねりを表現するのに、大きな効果を上げる。
 戸隠さまは、信州戸隠山の山腹に本社のある戸隠神社で、天手力雄命《あまのたじからおのみこと》を祭神とし早くから神仏習合がおこなわれて、戸隠権現《ごんげん》と称した。山岳信仰に発した神仏の霊場から修験道の道場にもなり、全国に霊験を知られている。
 梨を断《た》って戸隠さまを祈れば虫歯が治るという迷信は、戸隠の山伏が広めたものだが、梨を「有りの実」と呼ぶのは、音が「無し」に通じるための忌み言葉で、「かっちけなしの実、ありの種──かたじけない、ありがとう」などという洒落言葉もあった。
 その梨の実が、女の袂に入っていたのを、与太郎が石と間違えたのは、入水自殺の際には浮かび上がらないように、袂に重しの石を入れたものだったからである。
 この噺は、四代目橘家圓喬が名人芸をたたえられた演目の一つで、その衣鉢《えはつ》を継いだ四代目橘家圓蔵も得意にしたほか、三代目三遊亭圓馬も好演、近年ではこの圓馬ゆずりで三代目三遊亭金馬(昭和三十九年没─七十歳)が十八番としていたが、圓喬に私淑した五代目古今亭志ん生(昭和四十八年没─八十二歳)も、人情噺の名手の味わい深い高座を展開している。
 そこで、江戸の三大祭りだが、志ん朝は赤坂山王権現(日枝《ひえ》神社)・神田明神(神田神社)・浅草三社権現(浅草神社)を挙げている。あるテレビ番組で私もこの並べ方をしたところ、近ごろ間違える不勉強な輩が多いが、とんでもないことで、山王・神田のほかは深川八幡にきまっていると、きついお叱りがきた。富岡八幡の氏子か信者らしく、郷土史の印刷物まで添えてある。
 しかし、江戸三大祭りという並べ方には、不動の規範はない。『東京歳時記』秋の部、九月十五日(現在五月十五日)の神田明神祭礼のくだりに「凡《およそ》東京の祭礼は六月十五日山王の御祭礼を首とし、当社はこれに亜《つ》ぐ、故に合わせて両祭礼と称す」とある。つまり厳密には二大祭りという数え方しかないのであり、この二大祭りに本郷根津権現(根津神社)その他を加えて、三大祭りと呼んだ。したがって、富岡八幡でもあやまりではないかわりに、三社権現でもまちがいではない。志ん朝が不当に指弾されないように、あえて申し添えておく。
 たまたまそのころ、池田弥三郎氏も同様の指摘を受けられたらしく、ほかのテレビで同様に答えられておられたのでそれも申し添え、返事に送ったのだが、折り返しまた同じ印刷物が同封され、深川八幡以外にはあり得ないと強硬だった。これには閉口したが、祭り好きはことほど左様に熱烈なものだという証左にはなる。
 三代目金馬の固定してからの演出では、マクラからすぐ佃島の渡船場につながってしまうが、志ん朝は次郎兵衛が自宅を出るところから演じている。これは圓喬・圓蔵らの採った構成で、女房の嫉妬深さが後半への伏線としてよくきく。最終船で必ず帰ってくるといっておくのも周到である。
 もっとも、白薩摩《しろざつま》の着物、茶献上の帯、白鞣革《しろなめし》の鼻緒のすがった雪駄という粋なこしらえが似合う男前で、人あしらいにそつのない小間物屋とあっては、女房が気をもむのも無理はない。
 参詣と見物をすませた次郎兵衛が、渡船場へ急いできたときに鳴り出す八幡さまの鐘とは、隅田川河口の対岸深川にある富岡八幡の時の鐘で、八幡鐘と親しまれ、明け六つの鐘については、「八幡鐘の後朝《きぬぎぬ》に、別れともなや送り船」、「ついてくりゃんな八幡鐘を、かわいお人の目をさます」などと唄われた。
 引き止めた女が、「間違いましたらお詫びを申し上げますが」といいかける、お定まりの切り出しにすぎないところを、圓喬も圓蔵も志ん生も、なんだか心細いなという意味の合いの手を、次郎兵衛に入れさせる。それで笑えるのだが、志ん朝は「そら困るなあ」という。引き止めておいて、間違ったら謝るではすまないぞという抗議なのだが、その息がいいのでなんともおかしく、客席もどっと笑いを爆発させている。
 女の嫁ぎ先の船頭の家に同道して、次郎兵衛が結構なお住まいだと褒めるのは、お世辞ばかりではない。
 かつて、徳川家康が大阪の住吉明神に詣でた際、佃村の漁師が食事をまかなって御感《ぎょかん》めでたかった功により、江戸へ移住したのが佃島の由来で、以後、白魚をはじめとする魚介類を、将軍家御菜《ごさい》として毎日献上している。
 そのかわり、隅田川および河口一帯の漁業権を与えられ、献上残余の魚介類を、ということは水揚げの大部分だが、日本橋北詰めの魚市場で独占的に売ることができた。下腸地なので地代も店賃もかからない。しかも、諸国回船の保護を住吉明神に求める住吉講ができ、名産の佃煮などの商業も発展したため、島民の暮らしは裕福だったのである。
 だから、祭礼も派手だったのであり、氏子は早くから家屋を海水で洗い清め、畳を新しくし、軒先や笹竹にしめ縄を張り、海岸には幟や提燈を飾って、その日を待っていたという。海風が強いため棟こそ低いが、しっかりした造作の古くてもきれいに片づいた家で、命の恩人と丁寧にもてなされるのは、さぞいい気分に違いない。
 そこへ変事が知らされる。ここで、立ち寄りざま着物を預けて駆け去る男を、圓喬も圓蔵も金馬も女の亭主にし、それが仕事を済ませて戻ってくるようにしているが、志ん朝は志ん生ゆずりで、若い別人にしている。そして、うちの人にあったらお客様が見えているからと言《こと》づてを頼む。劇的な切迫感といい、段取りの自然さといい、この方がすぐれている。
 帰ってきた亭主は、色黒の頑丈な体をした鉄火な男だが、女房の命の恩人に対する態度はすこぶる篤実で、まことにすがすがしい。
 「あっしゃあね、あんまり神棚ってのは手を合わしたことがねえんです。たまにね、義理でもって、ちょいとこんなこと(拝むしぐさ)をやるんです」という飾りっ気のない自己紹介をする男だけに、女房の命の恩人に感謝を捧げている篤実さが、かえって率直にこちらの胸へ伝わってきて、いい亭主をもつことができて幸せだと、女の境遇を喜んでやる心もちになるというものである。
 場面が長屋に移り、悔みのくだりになる。悔みの描写は、落語という話芸の魅力が十分に楽しめるところで、いくつかの噺のマクラに使われるばかりか、一席に独立してもいるほどだが、こういうくだりになると、志ん朝の陽性な芸風が際だって発揮される。
 二人目のやつが、弁当の食あたりの顛末を報告して、自分のかかあのはばかり通いが激化、「あんまり出たり入ったりしているもんですからね、しめえにまちげえやがって、表へ出てきてさあっとけつまくりゃあがって、はばかりへ入っておろしてやがんですよ。笑っちゃったよ、あっしゃあ」というに至っては、抱腹絶倒、瀕死危篤のおかしさである。
 今夜は陰通夜《かげづや》で次郎兵衛の不幸を悼み、白々《しらじら》明けに死骸を引き取りに行くことにして、容装《なり》や持ち物だけでは目印になるまいからと、泣きの涙の女房に次郎兵衛の体の特徴を聞けば、左の二の腕に「こま命」と私の名前が入れ墨してあるという。
 このとき、「うへっ、おかみさん、ひどいね」云々と、だらだら受けたりせずに、「ああ、そうすか。どうも」とだけ答えているのがうまい。文字に直せば、あっけないほど短いのだが、多弁に劣らない濃厚さで、鼻白んだ反応が表現されている。腕である。
 送ってくれた船頭と別れて、次郎兵衛が帰ってくる。このあたりの騒ぎは『大山詣り(百人坊主)』に少し似ているが、次郎兵衛が死ななかったとわかればわかったで、女房はもう、その陽報のもととなった陰徳の行為につき、「女の人だからそのとき助けたんです。男の人だったら放り込んでます」と息巻く。
 この女房の描き方の鮮やかさも、本編の名作落語たる重大条件だが、つづいて月番が坊さんを呼んでしまったのに困り、「だれかこん中で一人死なねえかなあ」というのも、昔の長屋暮らしの風情がよく出ている。
 与太郎が身投げをさがして歩くのは、やや『ちきり伊勢屋』を連想させるが、みごとな間抜けまちがいに終るのが、陰徳陽報噺にとかくつきまといがちな偽善臭から、この物語を救っている。


『新選独演会』

Last modified: Sun Jun 9 02:05:35 2002