若い連中が集まれば決まって出るのが遊びに行く相談だが、揃いも揃って先立つものがないので金持ちの若旦那でも取り巻くことになり、手近なところで伊勢屋の気障《きざ》をと候補を定めたところへ、当人が体をくねらせながら「おや、コンツは」とおいでなすった。鳥肌が立ちそうなのを我慢してみんなでおだて上げると、昨夜は吉原へ行っておおもてだったと照れもはにかみもなくのろける。若い連中はなおも努力して、今夜はあっしらがその御全盛ぶりを拝見できるよう、お供をさせていただきたいとけしかける。
若旦那は後へ引けずに承知はしたが、拙の朋友という名目で連れて行くのだから、そんななりでは具合が悪い、せめて羽織ぐらいは着なければと条件を付ける。各自心当たりの方へ散って間もなく帰ってきた連中は、畳んだ風呂敷を三尺帯の前だけかぶせて帯に見せたのや、学校帰りの素封家の坊ちゃんの羽織を脱がしてきたのや、やせた体型の補正に手拭いに来るんだ煉瓦を紙入れがわりに懐へ入れたのや、すさまじいのばかり。
中でなんの身繕いもできない八五郎は、羽織がなければまたの機会にと若旦那にことわられそうになり、やむなく借りがかさんで敷居の高い親方の家へ行く。あいにく親方は羽織を着て寄り合いに行ったと聞いて、もう羽織はないのかと気落ちするが、失礼なことをいうな掛け替えの二枚や三枚あると姉御が出してくれる。その中から結城《ゆうき》を借りようとするが、使い道を問われて付き合いの吉原行きと答えると、そんなことでは帰ってきた親方に叱られるからいけないと姐御は拒む。
八五郎は一人だけ置いてけぼりになるとべそをかき、けちで貸さないわけではない、事と次第による、遊びではだめでも祝儀不祝儀なら貸さないこともないという姐御にすがりつくように、実はその祝儀不祝儀だ、両方からきた祝儀と不祝儀がぶつかって喧嘩になったなどと与太をいって姐御にたしなめられ、めでたいことなら羽織を略してもいいが、折れ口は略してはいけないと知ると、その折れ口だからと付け入る。
長屋で誰が死んだのかと問われ、羅宇屋の爺さんだと答えると、いつ、昨夜、おかしいね、たった今前を通ったよで、これはだめ。ほんとは爺さんでなくて婆さん、どこの、糊屋の、今二階で仕事をしているで、これも不合格。「いったい誰が死んだんだよ」に「そのうち誰か死ぬでしょう」──。
『酢豆腐』に『居残り佐平次』『錦の袈裟(ちん輪)』『寄合酒』の発端を合わせたような噺で、現に登場する伊勢屋の若旦那なる気障な通人は、「おや、コンツは」をはじめ、「おじゃまになっては悪《あ》しゅうがすから」「ちょいとイツフクしよおうかねえ」から「初回惚《しょかぼ》のべた惚《ぼ》」「婦人に一命を奪われやすな」まで『酢豆腐』の若旦那そっくりだし、衣装の調達に一旦散る設定は『錦の袈裟』の連中によく似ている。
現在は糊屋の婆さんでごまかしきれなくなり「そのうち誰か死ぬでしょう」で落とす(下げる)が、以前はまだ先があった。身なりを調達してきた連中が、あまり口数を聞かずに大様に振る舞う心得を言い聞かせた若旦那の引率で吉原へ行く。ある妓楼へ上がって座敷へ通り、幇間・芸者がきて酒宴がはじまる。床の間にある故人菊池容斎の掛物を見て、「後ろの化け物は容斎の鯉か。よほどよく描いてあるが、惜しい者を乞食にしたのう」としくじり、料理の話題に及んだ段で、「君たちの前だけれども、ただいまでは重箱の鯰でもねえのう」と通ぶりで反り身になるところを、反りすぎてひっくり返るのが、明治二十二年の二代目古今亭今輔所演速記あたりでは落ちになってるが、「世間は妙でげす。不思議でげす」と開化ぶりを見せてから、おほんと気取った咳払いをして懐をたたいた拍子に、紙入れの代わりに煉瓦が飛び出したというサゲもある。
重箱とは、柳亭種彦や河竹黙阿弥の作品にもでてくる、江戸時代から浅草山谷にあった老舗のうなぎ屋鮒屋儀兵衛の愛称で、鯰鍋やスッポン煮が名物だった。
原型は江戸時代にできていたのかも知れないが、文明開化の象徴でもある煉瓦を用いた洋風建築と歩道の銀座煉瓦街が完成したのが明治七年、考証の精密な歴史画家菊池容斎が没して惜しまれたのが明治十一年であることに照らせば、定型化の時期は推察がつく。これに限らず新風俗を際物的に取り込むと、古びるのも早いもので、そのために吉原へ行ってからが削除されるようになったのだろう。遊びの段がなければ廓噺には加えられないわけで、寄合い噺として楽しめばいい、たわいのない一編である。
ただし『羽織』『羽織の女郎買い』の別題もあるとおり、古典落語が熟成された明治時代中後期までは、羽織がステイタスシンボルでもあったことを、ゆるがせにしてはならない。そもそも羽織りなる衣服は、戦国時代末期に茶人らの閑居の略装として着用され、江戸時代に入ってから武家層にも及んで正装となり、さらに下っては町人・百姓層にも移りはしたがそれでも上層までにとどまっていたもので、農村では名主・庄屋級の大百姓ぐらいしか着用せず、一村に一軒しかない羽織を村中で借り回したという例もあった。
都市の町人でも、商人で羽織を常時着用できるのは、旦那・若旦那以外には支配人格の大番頭しかいない。まして「半纏着《はんてんき》」という種族蔑称さえあった職人では、親方級しか羽織を着ることが許されなかった。だから親方の姐御が常備を誇りにするのだが、つまりは身分柄の服装規制によって、高所得でも着用できなかったのである。
こう考えれば、自分の朋友というふれこみで行くからにはと、放蕩ツアー参加規定にフォーマルなドレスアップを要求する若旦那は、作り阿呆ならぬ気障演技で自分のおかれている被差別状況を測定し、ハイソサエティの会員証でもある羽織の緊急調達要請によって決定的な身分差の優位を誇示する、クールにしてしたたかなる復讐者なのかもしれないということになってくる。
脳天気な勇み手合いは、たかることに急で若旦那の報復に気づかず、作戦成功だと喜んでいるとすると、いよいよこれは若旦那の遊び勝ちだが、それはともかくとして、ことほど左様に重要な「羽織」の価値を、「あっし羽織なんぞもってねえんですがね。羽織がなくちゃいけませんか?」「羽織のない場合には、またつぎの機会ということに」と、さりげなく、しかし着実に強調しているのが、志ん朝の周到さである。
Last modified: Sun Apr 21 22:49:39 2002