三軒長屋

さんげんながや

 三軒長屋のとっつきが鳶頭政五郎の家で、寄るとさわると血の気の多い若い者が集まっては騒ぎ立てる。一軒おいた先が剣術使いの楠運平橘正友《くすのきうんぺいたちばなのまさとも》の道場で、武張った門弟衆が昼ばかりか近頃は夜稽古にはげむ。質屋伊勢屋の隠居に囲われて、中の一軒にひっそりと住む妾は、やかましいやら恐ろしいやらでたまらない。
 今日も今日とて、政五郎の留守に若い者がけんかの仲直りに集まり、妾の下女を化け物とからかって泣かすやら、酒がすぎてまたけんかとなり、出刃包丁を振り回して壁を突き破るやらの始末。片や、まいるぞ、お面、お小手、お胴と家《や》鳴り振動する騒ぎ。
 妾に訴えられた隠居は、この長屋は前からの家質《かじち》に入っていて、もうすぐ抵当流れになる両隣に店立《たなだ》てを食わせ、三軒を一軒に改造するつもりだからしばらくの辛抱だとなだめる。
 井戸端での下女のおしゃべりからこのことを知った政五郎が、一計を案じて橘運平と共同戦線をはる。
 門弟が増えて道場が手狭になったため転宅をするにつき、その資金作りに三日間の千本試合を催す、血みどろの真剣勝負になるので、左様御承知ありたいという剣術使いの申し出に、隠居はおびえながらもいい厄介払いと五十両の引っ越し料を出す。
 ついで、隠居は鳶頭の訪問を受け、若い者が増えて手狭になったため引っ越しをするにつき、その資金作りに三日間の花会《はながい》を催す、喧嘩沙汰で血を見ることもあるので、前もってお届けをという申し合わせたような気配を感じて、双方どこへ移るつもりなのだと聞くと、「へぇ、あっしが先生のところへ、先生があっしのところへ」──。

 落語の舞台になる長屋は、路地の奥あたりのいわゆる裏長屋、それも九尺二間《くしゃくにけん》(間口九尺・奥行き十二尺=三坪)の棟割《むねわ》り長屋という貧乏長屋がほとんどだが、これは珍しく二階建ての三軒続きで、横町・新道小路《しんみちこうじ》あたりにあり、隠居、遊芸の師匠、医者、妾、職人の頭領・親方、鳶の頭などが住んでいた。
 階下だけでも二間《ふたま》、あるいは三間《みま》・四間《よま》の家まであったから、ぶち抜いて改造すればごく小さな板敷きの剣道場ぐらいにはなっただろう。便所も総後架《そうごうか》(共同便所)でなく内後架《うちごうか》があるので、人目に立ちたくない囲われ者なら日常の小買いものは小女にさせれば、あとは銭湯に出かけるくらいのことで、ひっそり暮らしていられるのである。
 中国の明《みん》時代の笑話集『笑府』に原話があり、鉄鍛冶屋と銅鍛冶屋にはさまれた閑静を好む人の話だが、文化年間にはすでに『楠うん平』の題名が見られるから、かなり早くから翻案されているのであろう。
 近代になってからは、ともに名人とうたわれた四代目橘家圓喬と三代目柳家小さんが得意としている。後者の系統を、現五代目小さんが継承しているが、前者の系統を伝えたのが圓喬に傾倒した五代目古今亭志ん生で、志ん生十八番の一つとして長い間親しまれた。
 へこ半とがりがり宗次の喧嘩の原因というのが、銭湯の湯槽《ゆぶね》に宗次がいい気持ちでつかっているとき、半公が入ってきて一発放ったのが、宗次の鼻先で破裂し、湯がぬるくてくせえや、こんなぬるくせえこたあねえと宗次が怒れば、人のものを黙って嗅ぎゃあがる、今嗅いだのを返せと半公が開き直ったとこでというくだり(このもめ事は『大山詣り』にもある)の無類のおかしさは、今なおありありと耳に残っている。
 鳶頭の家、妾の家、剣術の道場という三軒の、まるで違う生活の感覚と様相を克明に描き分けなければならないばかりか、場面転換が素早くかつ頻繁に行われなければならず、長屋ものの中の大作とされる。
 騒音公害を含む環境保全という深刻な生活問題を扱い、土地家屋所有者の圧力表示と居住者の団結抵抗を描いてあるので、笑いの中にも現代的な共感が多く、今後も確実に生命を保ちつづけるだろう。
 浪人ながら武士である剣術使いには低姿勢で恐る恐る金を差し上げた隠居が、鳶職である頭には、手の内が読みとれたせいもあるが、がらりと高飛車になって、金も恵み与えるように渡すところに、富裕な商人の身分差意識が露骨に出ていて興味深い。
 志ん朝は変幻自在の志ん生演出を継承しながら、細部にわたって工夫を加え、彼独自のものに練り上げている。
 鳶頭の家からつっこんだ出刃包丁の先が妾の家へぶすっと出て、「なんだい、こりゃあ!」と驚く。次の瞬間、「ああ、近藤、遅いではないか」のひと声で、場面はもう道場へ移る。説明を削りに削って、一気に三軒を串刺し式に貫通する転換は、まことにあざやかというほかはない。
 頭の家に集まった若い勇み手合いが、入れこみから酒盛り、ついで喧嘩になる運びがきびきびとたのしく、さも身の軽そうな鳶の者らしい甲《かん》に抜ける声が、その目つきや顔立ちまで思い描かせる。
 大正初年生まれあたりでさえ、かなりおぼつかないべらんめえを、これほど高速でありながら明晰に、つまり歯切れよくあざやかに操ることができるのは、奇跡といっても言い過ぎではあるまい。
 お燗番の男が隣の妾の美しさにうなり、世の中にはこういう女もいるのだから、男はうっかりこれはいい女だと思いこんではいけない、あとになると必ずいいのが出てきて後悔するのだからと自壊するところは、わさびがきいていておかしいが、これはおそらく志ん朝のすぐれた創案だろう。
 さらに姐御がすばらしい。志ん生は、色は浅黒く口元のしまったいい女で、黄楊《つげ》の櫛を横にさし、お召しの茶弁慶に襟つき、八端《はったん》と黒繻子《くろじゅす》の帯を引っかけに結んで、唐棧《とうざん》の縞の半纏《はんてん》を着ていると描写したが、志ん朝はそれを一切はぶき、たずねてきた若い者に答える「(頭は)いねえよ」という第一声で、いかにも鳶頭の女房らしい鉄火な女を浮かび上がらせる。
 きかん気で、口の聞きようも「おれ」「かんげえる」と勇みだが、決していわゆる茨垣《ばらがき》ではなく、頭の留守を預かって若い者を束ねる貫禄もあり、年増女の色気もただよう。
 遊びでうちをあけた亭主が、照れ隠しに若い者を掃除ぐらいしろと叱りながら帰ってくるのへ、しなくてもいい、こんなうちは「どうなっちゃったってかまわないの!」と、若い者に答える形で迎えるくだりには、妬いているのではない、店立《たなだ》てを食うのがしゃくなのだと言いながらやはり妬いている、おきゃんなかわいらしささえほとばしってみごとである。思えば、こうした東気質《あずまかたぎ》のいい女は地を払い、志ん朝の声音の中に偲ぶほかはない。


『新選独演会』

Last modified: Sun Apr 21 22:48:21 2002