大山詣りを前に、先達《せんだつ》の吉兵衛が招集をかけ町内に男っ気がなくなる不安をかみさん連中が訴えてきたのでと熊五郎に残留を希望するが、楽しみにしていた熊が拒むと、実は毎年けんか沙汰を起こす乱暴者だから、遠慮してもらいたいのだという。決してけんかはしないと熊が誓い、吉兵衛の提案で、もめ事を起こした者は二分《にぶ》取り上げる、けんかをした者は髪を剃ってしまうという、罰則のきめ式(契約)が成立する。
きめ式が功を奏し、参詣は無事にすんでの帰り道、神奈川宿で吉兵衛に訴えがある。二人の講中の入浴中に泥酔した熊が割り込み、まずい歌を唄うやら、臭い屁を放つやら、わびもせずに暴言を吐くやら、とどけんかになった、罰金は払うからあいつを坊主にと息巻くのを、吉兵衛は後でわびさせるからとなだめ、大座敷での宴会となる。
熊が酔い寝した部屋に、収まらない二人が来て、髪をそり落とす。翌朝は熊の膳をごまかしたから一同はとりまぎれて、そのまま置き去りにする。女中に起こされた熊は通し駕籠で一同より先に帰ると、かみさん連中を集める。
帰りの金沢八景見物から、米ヶ浜祖師参詣で乗った船が突然の疾風《はやて》で遭難し、助かったのは一人だけ、とりあえず報告をとの物語にかみさん連中は仰天、ふだんのほら熊ぶりを指摘し眉唾を促した先達の老妻も、一同の菩提を弔うつもりと、熊が手ぬぐいをとって見せた坊主頭に、わあっと泣き出す始末。
帰ってきた一同は大数珠を繰り回しながら百万遍の念仏を唱えている尼たちが、自分の女房であることを知り、いきり立って熊をたたき伏せようとする。止めに入った吉兵衛が、おめでたいじゃないか、「お山は無事にすんだしさ、うちィ帰ってみれば、みなさん、お怪我(お毛が)なくっておめでたい」──。
狂言『六人僧』『腹立てず』が原拠で、井原西鶴の浮世草子『近年諸国咄』その他、随筆・民話に採録され、十返舎一九の滑稽本『滑稽しっこなし』、瀧亭鯉丈の滑稽本『大山道中膝栗毛』などに脚色されている。長屋の講中で大山大峰山の山上詣り(または伊勢詣り)に行く同想の落語『百人坊主』が上方にあり、『大山詣り』はこれからの移植だという説もあるが、古くから江戸は江戸で演じていたとも見られている。
東京系では、四代目橘家圓喬の『百人坊主』と題する速記があり、圓喬以後は四代目橘家圓蔵が得意にし(題名同前)、三代目三遊亭圓馬も演じた。戦後の代表的な口演は、圓蔵を継承した六代目三遊亭圓生、圓喬流を引いた五代目古今亭志ん生である。
志ん朝の『大山詣り』は、この双方の長所をとり、自家の工夫を上乗せしている。たとえば圓蔵全集の大正初期とは比較にならないほど、結髪習俗に対する生理的な親近感が薄れている現代の聞き手のために、昔の日本人が髷を大切にしたことの強調を、きめ式に続く出立のくだりに挿入したのが、圓生の行きとどいた神経だったが、志ん朝はこれに二分という金額の軽くないことにふれた、志ん生のこれもすぐれた挿入を足して、伏線を強いものにしている。
また、圓蔵・圓生が、講中の者同士が罰金と剃髪を申し合わせるのに対して、先達が一同を集めて申し渡す圓喬に、はじめに熊をおだてて残留を頼むことを加えた志ん生の踏襲だが、「けんかしねえってそいってるじゃねえかよ!」と、早速とんがらかる息は、さらにいい。
逆に、髪の剃り落としでは、みんなが寄ってたかってする志ん生流ではなく、二人だけが別室へ忍び込んで行う圓生流で、吉兵衛に「肉桂《にっき》(日記)も薄荷《はっか》もあるけえ」というむだごとも、かみそりを帳場から借りてくる運びも、圓生流を採り入れている。
さらに、志ん生も圓生も、熊の乱暴な言動だけだった湯殿でのけんかの原因をふやして、鼻先で泡がはじける音の演出をも復活し(このもめ事は『三軒長屋』にもある)、笑いをはじけさせる。かみそりを当てようとして、「目を覚まされたら大変だ。こっちが坊主にされちゃうよ」と慎重を期するのは志ん朝の独創だろうが、熊がいかに恐るべき猛者であるかがわかっておかしい。
女中に起こされて一服しながら晴天を喜ぶ圓生流につづけて、少し二日酔いだが心おきなく飲んだ酒が残るのはいい気持ちのものだ、これで迎え酒をやればなおいいなどというのも、旅先における酒飲みの酔い覚めの上機嫌がよく描けている。それだけに真相を知った驚きから、我が愚考への悔い、それにしてもと、一同の仕打ちへの憤り、仕返しの思い立ちという運びが、小気味のいい加速度を帯びるのである。
江戸へ帰り着いてからはますます快調で、手ぬぐいで頭を包んでいるさまに対する不審を、陽気の変わったところへ行ったせいか、なんだか悪寒がするのでこのまま失礼するとかわす息も、さらりとしてうまいし、遭難の物語に至っては、寸時の失調もない。嘘と知りつつ聞きながら、つい引き込まれてしまう。愁嘆のくささも、だまされた女房どもへの同情を忘れて楽しめる。
分別ある吉兵衛女房の泣き出し、みいちゃんをはじめとする集団剃髪、講中一同の立ち戻りと、こうなればもう志ん生も圓生もなく、志ん朝節の豊かな独走である。
相模国大住郡(神奈川県伊勢原市)の阿夫利《あふり》神社は、明治維新までは長らく神仏習合で、石山寺を別当寺とし、石尊《せきそん》大権現・大山不動とも呼ばれ、真言宗系の修験道の道場として栄えた。阿夫利神社の祭神は大山祗命《おおやまつみのみこと》とされて、神体は石剣であるといわれるが、ほかに雨降り石・陰陽石などの説もあり、地元や神社には「一大自然石」の言い伝えがある。別名の雨降山《あふりさん》にまつわる雷神信仰・万物創造主信仰から、紀元前七〜六世紀ごろイランに起こったゾロアスター教(拝火教)の流れも指摘されている。
源頼朝をはじめ、地方の武将たちの尊崇も篤かったが、江戸時代になっては、とくに江戸の庶民層、それも職人・鳶職・火消し・人足・魚売り・博徒・女郎・芸者・茶屋女といった者たちにすこぶる敬愛された。旧暦六月二十六日から七月七日までを初山、八日から十三日までを間《あい》の山、十四日から十七日までを盆山という。
両国橋東詰め・小石川関口にあった垢離場《こりば》で、水垢離を七日間とって精進潔斎し、伊達染めの浴衣や白い行衣《ぎょうえ》の揃いを着て、納め太刀と称する七八寸から一丈あまりの木太刀をかつぎ、夜中に江戸を立つ。その風俗は清元舞踊『山帰り』に活写されているが、大山講という講中を組み月掛け貯金までしていたのは、大半が帰り道の精進落としが楽しみだったからであり、中には盆精算の借金から逃げるための者もあった。往路は世田谷三軒茶屋から大山街道で十八里、復路は藤沢から東海道で二十一里、手ごろ足ごろの観光旅行だったのである。
Last modified: Sun Apr 21 22:42:34 2002