愛宕山

あたごやま

 たいこもちの一八を供に、東京から上方へ行った旦那が、京都で遊んでいるうちに思い立ち、芸子・舞子たちに繁造も連れて、春の愛宕山へまいることになる。
 前夜の屋敷の歓談で、山登りなら得意中の得意などと大言壮語をした一八は、山容を一望しただけで、早くも尻込みをするが、旦那に命じられた繁造が見張っているので、脱落もできず、強がりの鼻歌まじりに登り始め、いくばくもなくあごを出し、繁造に尻を押してもらうだらしなさ。
 茶店に休んだ一行は、弁当を使い春景色を楽しむ。正面の谷間に的の輪がぶら下がっているのは、愛宕山の遊びで知られる土器《かわらけ》投げで、旦那は茶店から土器を買い求め、手練の妙技を見せる。一八がたやすいことだと虚勢を張って挑むが、土器の端を少し噛んで欠く秘訣を知らないので、さっぱり的の輪を通らない。
 得意になった旦那は、このために懐中してきた小判を土器の代わりに三十枚も投げる。ことごとく的中はするが、当然のことに輪を通った小判は谷底へ消えてしまう。もったいないと驚き騒いだ一八は、拾ったらそっくりやるといわれて勇み立つ。
 しかし、茶屋の婆さんに聞けば、谷の深さは八十尋《ひろ》、降りる道はないことはないが、迂回して四里と十八丁もあるという。といって、すぐにあきらめがつくものではなく、茶店から番傘を借り、これで風を受けながらゆるく降りようと試みるが、目をつぶってもあいてしまい、助走をつけても止まってしまう。なかなか崖ふちを踏み切れない。
 立ち往生しているところを、旦那に命じられた繁造が、後ろから突く。傘につかまった一八は、フワーズズー、フワーズズーと、嵯峨竹の茂みをかすめながら、さいわい怪我もなく谷底に着く。
 崖の上へ無事を叫び伝え、谷底のそこここに散り落ちていた小判を残らず拾い集め、みんなやるぞという声に歓喜したまでは上首尾だったが、続く旦那の問いに気付けば、崖の上へ戻る方法はない。欲張りめ、狼に喰われて死ね、先に帰るぞといわれて、狼が出るとはしゃれにならないと青ざめる。
 窮すれば通ずで、着ていたものを全部引き裂いて長い縄をない、先端に石を結びつけ、これを崖の腹から出ている太い嵯峨竹の梢にからませ、縄を引いてしなわせた竹の弾力を利用し、崖の腹を蹴るようにして、ひらりと旦那の前へ。
 「ただいま帰りました!」「えらいやつだねえ!きさま、生涯ひいきにするぞ」「ありがとう存じます!」「金はどうした!」」「あ、忘れてきた」──。

 愛宕山は《あたごさん》は現京都市左京区上嵯峨北部にある標高三千四十六尺(924メートル)の山で、愛宕五峰と呼ばれる白雲・朝日・鷲峰・竜山・高雄の山塊から成る。
 山頂に火産霊神《ほむすひのかみ》(火神軻遇突知命《かぐつちのみこと》)をまつる愛宕神社があり、神仏習合によって愛宕大権現と称し、修験道の道場になっている。ここに住む愛宕山太郎坊という天狗は、鞍馬の僧正坊《そうじょうほう》彦山の豊前坊、比良の次郎坊、大山《だいせん》の伯耆坊《ほうきほう》大峰の善鬼、白山の相模坊、高尾山の飯綱三郎とともに八天狗と恐れられたばかりか、全国天狗会の第一人者として威勢をふるった。
 一般には火伏せの神としてあがめられて、京都人の山遊びを兼ねての参詣がしげく、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」といわれたほどで、祇園あたりからなら、道を西へとり、堀川・二条橋・天神川を横切って嵯峨野へ出ると、四季折々の景色をめでながら西北に進んで、一の鳥居から試峠を登っていく。
 「月ごとの縁日にも、老人は皿竹輿《さらかご》をかりて扶《たす》られ、婦人童子のわかちもなく、万仞《ばんじん》の嶮《さか》しきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは土器《かわらけ》なげに興じて足の重きを忘る」と『都名所図絵』にもあるとおり、土器投げが有名だったが、この遊びは江戸の飛鳥山や道灌山などでもおこなわれた。
 なお、東京の愛宕山(現港区芝愛宕町一丁目)は海抜わずか45メートルの小丘だが、この愛宕大権現を慶長八年(1603)に勘請したものである。したがって「あたごさん」と呼ぶべきなのだが、東京人は「あたごやま」と呼びならわしている。
 原型は上方落語で、野辺へ出ると「麦が青々とのびて菜種の花、れんげやたんぽぽの花盛り。その中をやかましゅういうて歩く、その道中のにぎやかなこと」となり、(唄)扇蝶菜種菜の花咲き乱れ、粋な枝葉に仮寝の枕、好いた同士の仲のよさ」と派手な下座が入る。
 上方出身で江戸落語もよくし、『祇園会《ぎおんえ》』などでは三都の言葉を完全に使い分けて天才だと讃えられた三代目三遊亭圓馬(昭和二十年没)が、東京風に改めたもので、圓馬に師事した八代目桂文楽が受け継ぎ、ねりにねり抜いて、自家薬籠中のものとした。
 現在もおこなわれている上方落語では、京都に住む旦那が、大坂をしくじって京都でごろついている幇間の一八・繁八を供に、祇園の芸子・舞子たちもつれて出かける段取りになっているが、文楽は東京から一八を連れて京都へ行った旦那が、祇園の者たちをも供にして山へ登ることにしている。
 文楽の圓馬に対する徹底した傾倒ぶりは、数多くの感動的な逸話に伝えられているが、彼の偉大さは決して尊敬する師の後塵を拝するに終らなかったことで、超人的な研鑽の末に文楽一流の独創的世界を確立した。
 『富久』もその一つだが、とくにこの『愛宕山』は、全身を激しく使い呼吸を切りつめる演技であるために、最晩年の狭心発作を心配した医者が、見かねて止めたのも聞き入れず、熱演をゆるめなかった自信作であり、その成熟度からも、そのきらびやかさからも、完璧な絶対境と見られていたものである。
 おそらく、すべての後輩は追随をも断念していたことだろう。その絶対境に志ん朝は挑戦した。五分に渡り合ったと言うよりは、むしろこれを凌駕、志ん朝『愛宕山』を確立したといっていい。
 明日の山登りに備えて一八に節酒を命じる前夜の座敷の場面を作ったこと、大弓のような的に土器を当てる文楽式と違い、輪になった的に土器をくぐらせるようにしたこと、崖ふちで飛び切りをこころみるだけでなく、坂を駆け降りた勢いで踏み切ろうとする動きをも加えたことなど、いくつものすぐれた工夫がほどこされている。
 落下傘のように舞い降りた文楽演出と変えて、嵯峨竹に引っかかりながらフワーズズー、フワーズズー、と降りていくようにしたのも、落語の荒唐無稽な造形力の生命を損なうていの、よくある合理化の改悪ではなく、自然らしさを加えながら落語の楽しさを増す、見事な改良となっている。
 後ろから繁蔵が突いたのが背中にちらりと見えたと、谷底でひとりごちるのもおかしいが、縄ないの内職にはげみながら、狼はヨイショ(うれしがらせ)がきかない、「おやっ、オウさん」などといっても喜ばないからと恐ろしがるところなどは、落語史に残る名ギャグといっていいだろう。
 志ん朝の挑戦は果敢だったが、彼はその闘志を口演に露呈しはしなかった。気負いを見せずに戦って勝ったところに、彼の大器たるゆえんがある。


『新選独演会』

Last modified: Tue Apr 29 14:15:57 2003