お屋敷の庭仕事から帰った植木職人が、女房に今日の衝撃的な体験を語る。
仕事中に三太夫がきて、若様のお出ましにつき控えろという。植え込みの陰からうかがうと、大勢の護衛つきで現われた若様は、人形のように美しく気品高い。泉水べりで穴あき銭を拾い、にこっと笑って三太夫に見せたから、やっぱり子どもは子どもだが、どんなものを買いたがるのかと見守るうちに、「かようなものを拾うたが、一体なんじゃ」との仰せ、「不浄なものでございますからおとり捨て願います」とお答えした三太夫は、捨てるにしてもこれはなんじゃとの御下問に、お当て遊ばせといなす。
裏表を返して見ていた若様、丸くて穴が四角、表に字が書いてあり、裏に波が彫ってあるから、お雛様の刀の鍔ではないかとのお見立て。不浄につきという再度の言上に、ぽいと投げ捨てて去る。聞けばお八歳とか。小遣いくれとねだる、わが家のガキと思いくらべて、つくづく情けなくなった──。
ふだんお前がねだられるままに銭をやりすぎるからだと叱り、暮らし向きが違うのだからしょうがないと逆らって、口論する夫婦の背後に、足音もなく近寄る当家の若様、お八歳。お雛様の刀の鍔などとはとても言えまいとののしれば、言えるから銭を落としてみろと言い返すしたたかさ。亭主がいきり立つと、女房は小遣いを与えて逃がす。
そこへ訪れたのが、別の出入り先の隠居で、当の職人が、こんなうちは出入りしないと毒づいた事件に関する談合である。庭の植え替えを望んだ隠居が、番頭を使いによこしたとき、あいにく当の植木職人は、お屋敷の仕事にかかりきりで、すぐには受けられない。年のせいで気がせく隠居が、番頭のすすめのままに、植え替えだけならと、別の職人を入れたのを、当の職人が見とがめて、親の代から出入りなのにと、逆上のあまり毒づいてしまったのだった。
悪いのは番頭ではなく、わがままをいった私だ、機嫌を直して今後も来てもらいたい、隠居にやさしく謝意を表わされて、職人は恐縮の極み、女房にもさとされて大いに反省していると、懸命に非礼を詫び、茶よ菓子よともてなしにつとめているところへ、当家の若様が戻ってきて、「こんなもの拾った」と穴あき銭を見せる。
お雛様の刀の鍔かとの見立てを聞いた隠居は、職人の子で銭を知らずに育つとはと驚き喜び、感心だから手習いの道具一式を贈ってやろうという。礼をのべた職人が、「そんな不浄なものは早くうっちゃっちまえ」と、三太夫ばりにきめたが、にわか若様は調子を合わせず、「いやだい、これで焼き芋買って食うんだい」──。
吉原で全盛の女郎が、緡《さし》でつないだ銭が落ちているのを見て、蛇だと恐れて失神したのが、さすがだと大評判になったのを、売れない女郎がまねて、すさまじいはした銭がと言い損なうという小咄、客に小粒金(一分金)をもらった女郎が、これは薬かと知らないふりをしたのに、去った客が紙入れをとりに戻ったところ、腹這いで小粒を四つ(四分で一両)づつ分けていたという小咄があるが、直接の原点とは判定しかねる。
上方落語『お太刀の鍔』は、主人公の大工の出入り先が、武家屋敷ではなく豪商鴻池《こうのいけ》家、おつきは三太夫ではなく乳母であり、東西の風土の相違がうかがえる。明治三十年における三代目小さん(昭和五年没)の速記が残っているので、あるいは多くの例のように彼が上方落語を東京へ移したものかと、考えられないこともないが、彼と同時代人(しかも同年生まれ)の初代三遊亭金馬後の二代目三遊亭小圓朝(大正十二年没)が得意だったのだから、もともと江戸落語として定着していたのかもしれない。
初代金馬から教わった二代目金馬(大正十五年没)に習った三代目金馬(昭和三十九年没)と、初代金馬の子三代目小圓朝(昭和四十八年没)が主に継承し、前者の明快、後者の枯淡が親しまれた。小圓朝系統の方が以前の演出に忠実で、金馬系統はだいぶ改訂がほどこしてあるらしい。志ん朝は金馬系統に近く、そこへ、さらに創意を加えている。
外に遊びに行ってこいといわれた子どもが銭をねだる。小圓朝と違い、亭主は与えずに強く拒み、女房が与えて去らせるのを、亭主が叱りつけて、女房が反発する。貧乏暮らしでは、女房が子どもを遊ばせていては、家事ができないから、やむなく小遣いをやるのだ、おあしが遊ばせているようなものだという、いわば必要悪説で、これが金馬流だが、地に足のついた女房の生活力が感じられるし、亭主の上流志向との対比もきく。
そこへ訪れるのが、小圓朝流では番頭で、庭仕事の停滞に関する旦那の立腹を伝え、できないのなら他へ回すという、高圧的な態度だが、志ん朝は金馬流の隠居で、ほかの者を臨時に入れられて職人が荒れたことについて、番頭が悪いのではなく、私のわがままだったと、やさしく詫びる。職人の恐縮も一層増す道理で、この方がずっとすぐれているが、志ん朝はその上に、翌朝職人が亡父の位牌を見て反省するのではなくて、亡父が作った出入り先を失ったことを指摘する、女房の忠告で反省する。
茶請けの出し方についてつぎつぎに小言を飛ばす、志ん朝の調子がすこぶるよく、まごまごしている女房の様子が、鮮やかに目に浮かぶ。「(半紙を)真っ四角《まっちかく》に折るんじゃないよ。少し気どって折れ、気どって。気どれ気どれ。手前で襟元なおして手前が気どってやがら!」のおかしさは無類のものである。客の前で小言をいうのは、聞き苦しいものと承知はしながらも、思ったときに叱ることにしているのは、物忘れが激しいからで、あとで仕事をしながら思い出して悔しがったりするというのも、いかにも江戸の職人らしい気質で好ましい。
そこへ「こんなもの拾った」」と帰ってきた子どもが、穴あき銭の形容につづけて見立てをいう。小圓朝流と違い、何だろうと質問する。これも金馬流だが、職人の「なにょゥいやがる」が、単純な金馬の口調よりはるかに屈折した奥深い、身も世もなく照れたものになっている。ふたことめの見立てに対する「なにょゥ」の鼻白みかた、さらに押してくるずうずうしさに対する「何度もやるんじゃねえ」のうろたえた怒りもいい。隠居にほめられると、かかあが屋敷奉公をしていたものだからというが、茶請けの出し方も知らない女が、屋敷奉公などしていたはずはなく、こんなとっさの嘘にも、職人の上流志向が出ていて笑わせる。
裏面に青海波《せいがいは》の模様のある穴あき銭は、波銭とも呼ばれた明治五年(1768)発行の四文銭で、大福餅やねじりん棒やお面が駄菓子屋で買えた。
Last modified: Sun Apr 21 22:32:31 2002