佐平次という調子のいい男から、品川のちょいといい店へ上がり、芸者を呼んでどんちゃん騒いだ上に、たらふく飲み食いして、五円の割り前でいい、不足は俺が足してやるからと誘われて、三人が喜んで遊びに行く。
どんちゃん騒ぎがすんでお引けのとき、三人から割り前を集めた佐平次は、これをおふくろに届けてくれ、あとは俺にまかせろ、実はこのところ身体を悪くしているので、海の空気のいいこの品川に、養生がてら居残りをするのだという。
心配しながらも三人が翌朝早く帰っていくと、若い者が若い者が挨拶にきて、金を支払ってもらおうとするが、佐平次はろくろく口もきかせず、二日酔いだから直す(延長する)と朝湯に入り、迎え酒をやってひと寝入りする。
やがて起こしにきた若い者が、勘定のことを切り出すと、昨夜の三人は遊び好きで、早速今夜大金を使って裏を返しに来る、それを待っているのだというので、また若い者は煙に巻かれてしまい、その晩も過ぎてしまう。
翌朝勘定を催促すると、佐平次はけろりとして金はないといい、三人はあの晩新橋のしゃも屋で知り合ったばかりの間柄だから、住まいもわからないし、他に身よりもないから成り行きにまかせると開き直り、いきり立つ店の者を尻目に、自分から悠々とふとん部屋にはいる。
けちがついたと思いのほか、店は繁盛して人手が足りず、客がいらいらしているところへつけいり、幇間もちそこのけに機嫌をとるので、面白がる客からの呼びがふえ、人気が高まる。
祝儀を横取りされて憤慨した若い者たちの訴えで、楼主が厄介払いをしようと呼びつけ、勘定の算段に帰宅してはとすすめれば、佐平次は悪落ちに落ち着きに落ち着いて、実は夜盗、掻つ裂き《かっつあき》、家尻《やじり》切り、悪事を重ねてきた身なので、かくまってくれとすごみ、怖がった楼主から高飛びの路用に着物・帯・羽織・足袋などまでせしめ、店を出る。
若い者が後をつけていくと、鼻歌をうたって歩いていた佐平次は、俺は泥棒などではない、方々の色里を居残り専門で荒らしている者だとせせら笑って立ち去る。
報告を受けた楼主が、「人をおこわにかけやがって」といまいましがるのに答えた若い者、「旦那の頭がごましおでございますから」──。
品川は吉原のように官許ではないが、公称だけ飯盛り女と呼ぶ宿場女郎をおいた色里であり、四宿《ししゅく》(ほかに板橋・千住・内藤新宿)の第一として繁盛した。歩行新宿《かちしんしく》・北品川・南品川から成り、北品川と南品川の間に目黒川の橋が架かっていたので、南品川は橋向うと呼ばれる。橋向うは安上がりで、歩行新宿には島崎・土蔵相模などの大見世があり、、これらの大見世へは、吉原同様引手茶屋を通さなければ登楼できなかったが、明治になってからは直接上がることもできた。
吉原が北里《ほくり》と称されたのに対して、江戸市街の南方に位置するため南郭《なんかく》と呼ばれた品川は、桜の御殿山、紅葉の海晏寺を背にし、晴れた日には房総まで見渡せる美しい海を前にして、保養に適している上に、吉原のように格式張らない土地柄だったので、職人や遊び人に好まれている。
無銭遊興の客に対しては、空気と食物の入る窓の桶をかぶせて道端にさらす、桶伏せという制裁が吉原にあったが、それも初期のことで、以後は一人客なら勘定受け取りのいわゆる馬をつけ、連れがあれば精算の迎えが来るまで行燈部屋に居残りをさせたらしい。
なお、「おこわにかける」は人を騙すことをいい、とくに美人局《つつもたせ》をいうことが多かった。また、楼主をゆするところで使うせりふは、河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画《あおとぞうしはなのにしきえ》──白浪五人男』稲勢川勢揃いの場における、忠信利平の名のりぜりふである。
『子別れ』の作もある、江戸中期の人情噺の名人初代春風亭柳枝(慶応四年没)の作。粋な芸風でならした四代目三遊亭圓生、廓遊びに徹して失明した初代柳家小せん、奇行で知られた三代目蝶花楼馬楽らが得意としたが、小せんから習った六代目圓生が十八番としたほか、五代目古今亭志ん生も好演をたたえられ、これを志ん朝が受け継いだ。
志ん生は明治から大正へかかるころの、「あたしなんぞも若くって、きれいでな、役者とまちがえられた時分のはなし」とし、志ん朝もその時代設定に準じているが、何しろ遊びの水のしみ込んだ年輪がものをいうとされる、廓噺中の大作である。
さすがの志ん朝でも、まだ芸の背丈が及ばない印象を与えるかと、危ぶまれないでもなかったが、持ち前の明るさといきのよさで見事に押し切った。
居残りを商売にする男だとすごんではいるが、冒頭の友達とのやりとりでもわかるように、ただ悪がるのが好きで、いたずら心の旺盛な男なのである、それが二日目の朝には、起こしにきた若い者への返事の中に、世辞っ気がまじりはじめるところなどに表われている。
医者の見立てから察するに、当時は不治の病だった労咳《ろうがい》(肺結核)にでもおかされていたのだろう。ひっきりなしにおそってくる不安をまぎらすために、大車輪でふざけ通していなければならなかったのかも知れない。としたら、ずいぶん寂しい男だったわけだが、超特急の調子のいい男の陽気な言動の裏に、そんな哀れも感じさせるひだが、志ん朝所演にはある。
出色なのは、霞さんなる女郎ののろけを伝え、常連客の勝っつぁんをうれしがらせるくだりで、好きな人がこないじれったさに、柱に寄りかかって楊枝をばりばり噛んでいる仇っぽさなども、亡父ゆずりで結構だが、居残り相手に述懐をはじめ、男嫌いで通してきたのに、「どういうわけだか、あの勝つぁんには……」といいさして、言葉が切れたから、あとを促すと、目の前にくねった霞さんの白いうなじがあったという描写は、ぞくぞくするほど色っぽい。これは志ん朝の創作だろうが、後の非凡な力量をうなずかせるに十分な箇所である。
「白いうなじ、ね、わかりますか?うなじですよ。うなぎじゃないよ」というクスグリもあくどくないし、「その白いうなじに赤みがさした、と。弱ったよ、ああた」とオクターブが上がっていくのも楽しい。これで、「こんな人をこんなくたくたにさせちゃう男はどんな男だろ」と顔を見たがっていたのだとまでいわれたら、勝つぁんならずとも「タバコでも買え」と祝儀をやりたくなる。
「佐平次」(左平次・佐平治とも)は、もと人形浄瑠璃社会の隠語で、語源は不明だが、余計な口出しをすること、追従をいうこと、出すぎたまねをすることなどをいい、口先だけの親孝行の「佐平次孝行」、でしゃばる意味の「佐平次ばる」などの言葉もある。
Last modified: Sun Apr 21 22:31:00 2002