第六回講義

『落語界 ── 戦後から現在まで ──』

橘左近

 明治年間に驚異的発展を遂げた落語界が、大正期の大混乱時代を経て後年、関東大震災という未曾有も大災害が寄席興行に甚大な影響を与えたが、レコード、ラジオの進出によって都会から地方へと益々その認識、知名度は高くなった。しかし世情は軍事色を鮮明にし、昭和初期から太平洋戦争へ没入していく過程の中で、寄席演芸は他の芸能もろとも衰退を余儀なくされた。普段は気楽な稼業と芸人心のしみついた噺家であってもこの時ばかりはお国の為にと、軟弱とのお達しを先取りして大戦一ヶ月前から自ら禁演落語五十三種を決めて封印することで、殉国の意思表示をしたという事実もある。そのためか終戦直後には仇討、心中物までが占領国GHQから禁止されるという、今では想像もつきかねる厳しい統制下に曝《さら》されたが、しかしそれもわずか一年後には全て解禁され、晴れて自由な高座が展開されたのである。
 「戦後はりんごの唄から、落語は歌笑《かしょう》から」と笑いに飢えた庶民にとって歌笑の出現は希望であり復興の狼煙《のろし》でもあった。以後の新作派の起爆剤であり、従来からの純古典派にとっても新時代の幕開けへの大きな刺激でもあった。落ちつきをとりもどした寄席の盛況と人心の安息は、再び古典落語への郷愁と憧れを助長して、各所におけるホール落語の誕生、民法開幕、テレビの進出、専門出版物の刊行というよどみない経過をたどる。
 昭和初期から平穏をつづけた団体(落語協会、落語芸術協会)も社団法人と認可され、ふくれ上がる入門者を抱え込む中、体質改善をとなえて昭和五十三年ついには故圓生による三遊派旗揚げから圓楽党への移行、同五十八年談志による立川流創設などの改革が断行され現在に至っている。
 因みに現在落語協会二百十名、芸術協会百十名、圓楽一門三十一名、立川流三十二名と、東京の噺家は総勢三百八十名、大阪二百五十名という陣容である。定席不定期席をふくめても、わずか七ヶ所にひしめく中、それぞれが個会を企画し、各所に進出して活躍の場を求めて東奔西走しているのである。

『落語家系図』について

 表記いたしました系図は江戸中期、京、大坂、江戸にほぼ時期を同じくして落語家の祖といわれる京の露《つゆ》の五郎兵衛《ごろべえ》、浪花の米沢彦八《よねざわひこはち》、江戸の鹿野武左衛門《しかのぶざえもん》という人たちが出て別々の場所で活躍をはじめたのが 貞享・元禄(1684〜1704)といわれ、三者が同時にというのも偶然とはいえ興味深いものです。以後この三人が全て現代につながってはいませんが、江戸では中興の祖といわれる天明・寛政期の初代立川圓馬《たてかわえんば》から、職業落語家の始めといわれる初代三笑亭可楽《さんしょうてからく》につながり幕末から明治二十年代にかけて圓朝、志ん生、圓生などの三遊派、柳橋《りゅうきょう》、扇橋《せんきょう》、燕枝《えんし》などの柳派当たりからこの系図は仕立ててあります。
 大阪も初代文治に始まる桂派、江戸林家正蔵の孫弟子林家正三からの林家派、初代笑福亭松鶴《しょうふくていしょかく》の確立した笑福亭派、他に立川三玉斉からの立川派(明治十年頃まで)がありました。明治二十年代以後桂・三友両派が対立、途中藤明派、瓦楽派などが分立し大正期に吉本が桂・三友の両派を吸収、昭和三十二年に上方落語協会が結成され、現代は親睦団体の色彩が強く興行団体としては別行動を取っています。
 いずれにせよこの系図は明治、大正、昭和期に最も活躍が著名であった人を記したもので、平成の現今は前座から真打ちまで全員を記したつもりです。


『落語塾』 第六回

Last modified: Fri May 3 21:27:28 2002