落語華やかなりし頃

保田武宏

 この全集に収録された落語家の顔ぶれを改めて見直して下さい。これだけの名人上手が揃っている時代、ナマで聞ける時代があったら、すばらしいなあと思いませんか。毎日聞きに行ってもいいという方もいらっしゃるでしょう。今考えると夢のような時代。それが現実にあったのです。昭和二十六年から三十年にかけてです。そして「昭和落語の黄金時代」は、四十年ごろまで続きます。
 落語家が職業として成り立つようになって約二百年。この間何度か栄枯盛衰がありました。江戸時代の昔はいざ知らず、明治後期から大正にかけては、名人上手がたくさんいて、落語が栄えていました。当時その芸を聞く場合は、金持ちが座敷に落語家を呼ぶのを別にすれば、ほとんどが寄席だったのです。
 当時はまだ映画館も普及しておらず、庶民の楽しみの場所は、江戸時代から続いている寄席が主流でした。もちろんラジオもテレビもありません。レコードはぼつぼつ出始めましたが、高価な上に音が悪く、片面三分では満足な芸は吹き込めず、まだ庶民の手の届かないところにありました。速記本がたくさんでていましたが、これは読み物としての落語であり、芸の善し悪しまでは分かりません。その代わり寄席はたくさんありました。落語ばかりでなく、講談、浪花節、義太夫の席もありましたが、東京市内なら、歩いていける範囲に一軒くらいはあったようです。寄席が多いので、名人上手は掛け持ちで出演するのが常でした。
 それが大正の後半から昭和の初めになると、他の娯楽に押されて落語は衰退します。寄席が映画館に代わっていくのです。大正十二年の関東大震災で、東京の住宅地が郊外に移ったことや、地方出身者が増えたことも、江戸っ子の芸を自認する落語にとってマイナスでした。大正十四年からはじまったラジオ放送でも、落語は採用されましたが、人気回復とまでは行かなかったようです。レコードも、時間の制約からか、一部の新しい落語だけが売れました。そして戦争に突入、落語は本来の姿を失っていきました。
 戦後、自由が戻って、落語家にも働きの場所が戻ってくるかと思われたのですが、思うようにはいきません。生活苦、食糧難の時代に、笑いは歓迎されたのですが、その笑いを供給する場所がないのです。わずかに残った寄席は、客が入ったのですが、新規に寄席を作るだけのゆとりがありません。ラジオは戦前と同じく、NHK一局のみです。レコードも盤の材料不足で、落語まで手が回りません。自由な時代になっても、落語家の生活は不自由でした。
 こんな状態が、昭和二十六年まで続きます。二十六年に落語家が出演していた寄席は、次の五件しかありません。

  上野・鈴本演芸場
  人形町・末廣
  新宿・末廣亭
  神田・立花演芸場
  池袋演芸場

 現在は四軒ですから、ほとんど変わらない状態だったわけです。
 このころの落語家は、落語協会に文治(八代目)、文楽、志ん生、円歌、圓生、正蔵、柳枝、右女助(後小勝)、小圓朝、つばめ、談志、芸術協会に左楽、柳橋、小文治、柳好、今輔、三木助、可楽、圓馬、圓遊、枝太郎、遊三、痴楽、フリーに金馬、権太楼、金語樓、桃太郎といった顔ぶれです。
 この二十六年の暮れ、落語家に光明が訪れました。ラジオの民放放送が始まったのです。十二月二十四日に、東京の民放第一号であるラジオ東京(現TBS)が放送を開始しました。この日早速文楽の十八番「明烏」が、電波に乗ったのです。翌二十七年三月三十日の夜、文化放送が開局し、九時三十五分から、文楽の「厩火事」が流れました。その後十時三十分から、ラジオ東京で同じ文楽の「あんまのこたつ」が放送され、その前八時からは、NHKで圓遊の「お見立て」と柳好の「横須賀線」があり、一晩わずか三時間の間に、茶の間で一流どころを四席も聞けたのです。
 NHK一局時代に比べて、落語の放送は三倍以上に増えました。演芸番組は、手っ取り早く放送できるので、落語家は引っ張りだこ。昼の番組には、まだ真打になっていない若手まで登場しました。家庭で落語を聞く機会が増え、落語の人気は上昇していったのです。
 そのうちに、人気落語家を専属にするという手を打ったのがラジオ東京です。二十八年七月に、文楽、志ん生、圓生、小さん、桃太郎の五人と契約を結び、他局へ出演出来なくしてしまいました。
 二十九年七月十四日、東京で三番目の民放であるニッポン放送が放送を開始しました。同局は志ん生をラジオ東京から引き抜くのに成功し、早速同夜志ん生の「一目上がり」を流しています。落語家の専属制度は、他局にも波及して、三十年代にはラジオ東京が文楽、圓生、正蔵、小さん、圓遊、文化放送が今輔、可楽、百生、ニッポン放送が志ん生、柳枝、NHKが柳橋、三木助を専属にしました。人気者の金馬は専属にならず、各局に出演していました。
 専属になると、一つの局ばかりに出演するので、同じ噺ばかりやっているわけには生きません。レパートリーを増やす必要に迫られました。志ん生、可楽、圓遊らの持ちネタが増えたのは、専属制度のおかげといってよいでしょう。落語ファンにとっても、数多くの噺が聞けるのは有り難いことで、これがまた、落語の人気上昇に繋がりました。
 落語の放送回数は、三十一年になるとかなりの数になります。八月二十五日の土曜日を例に取ると、NHKで圓都「壺算」、ラジオ東京で柳枝「〆込み」、小さん「蜘蛛駕龍」、円歌「佐々木政談」、文化放送で小きん「野ざらし」、三平「二等兵物語」、米丸「電車風景」、小金馬「ドレミファ教室」、圓右「若夫婦日記」、ニッポン放送で今輔「子供自慢」、つばめ「小言念仏」、枝太郎「青春日記」と、実に十二席もあります。このほかにボップ・ホープと千太・万吉の漫才があるのです。これが一日の最多記録かどうかは知りませんが、今では考えられない数です。まさに「落語の黄金時代」です。
 落語の全盛時代に貢献したものに、ラジオの他にホール落語があります。東京のホール落語の走りは、日本橋の三越劇場で始まった三越落語会です。これは今でも続いています。第一回は、二十八年四月十一日で、安藤鶴夫選で次の六人が出演しています。

三人旅
印鑑証明
提灯屋
百川
宿屋の仇討
心眼
小金治
今輔
小さん
圓生
三木助
文楽

 寄席ではなかなか聞けない名作を、月一回、名人上手にたっぷりとやってもらおうというのが狙いで、折からの落語ブームにのって、毎回盛況でした。
 三十一年には、東横落語界が誕生しました。渋谷の東横劇場で開かれたもので、当初は隔月でしたが、四十年から毎月になりました。この会は、五人のレギュラー出演者を最初から決めてしまうという、当時としては画期的なやり方で、話題を呼んだのです。五人は、文楽、志ん生、圓生、三木助、小さん。当時乗りに乗っている名人上手ばかりですので、前売り券売場にはいつも行列が出来ました。第一回は五月三十日。文楽が都合悪くて、金馬が代わりに入るという変則メンバーで、次のような内容です。

蜘蛛駕龍
粗忽長屋
転宅
へっつい幽霊
提灯屋
品川心中
小ゑん(現談志)
志ん生
金馬
三木助
小さん
圓生

 この東横落語界の人気で、落語黄金時代は頂点に達しました。その人気は、数年間持続され、その間三十四年に、第三のホール落語である東京落語界が出来ました。これはNHKの主催で、東横落語界とは逆に、なるべく多くの名人上手に出演してもらう方針で始まりました。第一回は七月三十日、第一生命ホールで、以後毎月開催し、現在は会場がイイノホールに変わっています。第一回の出演者と演題は次の通り。

隣の外人
棒だら
出来心
らくだ
栗橋宿
百人坊主
大丸屋騒動
抜け雀
柳昇
馬の助
小さん
可楽
圓生
柳橋
小文治
志ん生

 現在も開催されている紀伊国屋寄席は、三十九年九月十二日、落語研究会は四十三年三月十四日のスタートで、かなり後になります。
 やがてテレビがラジオにとって代わる時代になると、落語も下火になりました。テレビでは、座布団の上に座って芸をする落語は不利で、画面いっぱいに動き回る番組には勝てず、放送回数はどんどん減っていったのです。ホール落語も、創立期の名人上手がいなくなり、後継者をレギュラーで押さえにくくなって苦戦しています。
 思えば、昭和三十年前後は、落語にとって良い時代でした。そのころに活躍した人たちの芸を楽しめるこの全集は、貴重なものだと思います。じっくりとご鑑賞ください。


『新編 古典落語名人全集』

Last modified: Thu Mar 13 13:34:24 2003