| 『夢八』 | 14:10 | 昭和34年8月文化放送音源 |
| 『十徳』 | 12:52 | 昭和34年1月文化放送音源 |
| 『八五郎坊主』 | 12:23 | 昭和34年6月文化放送音源 |
| 『天王寺詣り』 | 15:12 | 昭和39年4月文化放送音源 |
入門以来四十五年、ようやく東京で遅まきの花を咲かせた百生は、本名を小河真之助といい、明治二十八年十月三日、大阪市南区二つ井戸で生まれた。父は鉄工所を経営していて、豊かに暮らしていたが、九歳のときに父が死亡し、それから一家分散の憂き目に会い、はだか一貫で家を飛び出す。それから夜店の茶碗売りを初めいろいろな商売をやった。特徴のあるガラガラ声は、このときに鍛えられたものだという。
茶碗売りをしている時、今川焼屋のおっさんに誘われて、十円もらって二代目桂文我の一行に前座として加わった。これが縁で、文我に入門し、我蝶という名をもらった。明治四十四年のことである。
その後我朝と字を変え、大正八年一月に東京の七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)の門に入って翁家さん助と改名したが、まもなく大阪に帰って我朝に戻ったり、また上京して桃太郎団語と名乗ったり、さっぱり腰が落ち着かないそのうちに中国の青島《チンタオ》に渡って幇間となり、それからカフェーの経営をする。戦争が激しくなると、洋服問屋小河商店を始めた。順風満帆のよき時代だった。
やがて終戦となり、青島で築き上げた財産は日本に持って来れず、行李一つと千円の金を持って帰国。夫人の郷里である愛媛県の新居浜に一時落ち着いたが、落語が恋しくなって、家族を新居浜へ置いたまま大阪へ出て、二代目春団治のところへ身を寄せ、桂梅団治と名乗った。ところが終戦直後は、上方落語のドン底時代で、ちっとも仕事がない。しかたなく東京へ出て、喫茶店「我やん」を開いたが、これも失敗した。
また大阪へ戻って梅団治で落語をやっていたが、相変わらず仕事は少ない。そこで古くから付き合いのあった六代目三遊亭圓生を頼って上京し、落語協会に加入して昭和二十七年十月から梅団治のまま寄席に出た。
百生を襲名したのは昭和二十九年三月。前にも名乗った人がいたので、二代目である。百生になってから、ようやくその芸に花が咲いた。二代目文我に入門して以来、四十五年もたってからのことであった。
文化放送の専属となり、放送や寄席で活躍していたが、百生を襲名してからちょうど十年たった昭和三十九年三月三十一日、肺ガンのために亡くなった。六十八歳だった。
東京の寄席でも、あくの強い上方落語で通したが、東京でも上方の言葉が通用しかかっていたときだけに、多くの人に愛好された。
夢八《ゆめはち》
「夢八」とは、「夢見八兵衛」の略である。これも純粋の上方落語で、明治大正時代に一時「伊勢詣り」の題で東京へ移されたことがあったが、水に合わないのか、いつのまにか廃れてしまった。
「天王寺詣り」と並んで、百生の十八番と言える噺で、よく高座にかけていた。特に手拭いを自分の首にかけて、首吊りのかっこうをするところでは、口では「これやから私この噺やんのん嫌いで……」と言いながら、楽しそうにオーバーな仕草をしていた。このへんは、今の露の五郎に受け継がれている。それと八兵衛が棒で叩くリズムが実によい。
上方落語には、東京の与太郎は出て来ない。この噺の八兵衛も、阿呆と呼ばれているが、与太郎とはちょっと違う。やはり百生が得意にしていた「ろくろ首」の阿呆も、東京では与太郎がやっているが、上方ではちょっと違う。これも百生はうまかった。とにかく賑やかな人物が得意だった。
八兵衛がもらう金額は、三百円になっているが、以前は三円でやっていた。三円でも時代によっては大金なのだが、分かりにくいと思って時代設定を少し後にしたのだろう。
十徳《じゅっとく》
上方にも東京にもある噺だが上方の音が商品化されるのは、これが始めてであろう。
東京のは、安永二(一七七三)年に出た、『御伽草』に載っている「十徳のいわれ」という小咄が基になっている。次のような小咄だ。
「立つたる所は羽織のごとく、座った所は衣のごとく、ごとくごとく合わせて十徳」「なるほど、きつひ物知り」といへば、側の一人が「おれもそんな事はいひかねぬ。立つたる所は羽織に似たり、座したる所は衣に似たり、にたりやにたりや、ヤ、コレハしたり」
東京のは、この小咄のサゲを使っており、間違え方も最初が「ようだ、ようだでやだ」次が「見てえ、見てえで、むてえ」最後が「これはしたり」で、八、六、四とだんだん数が減って行く。上方は逆に、四、六、八と増えて行って、最後に相手に「ごとく、ごとくで十徳」と言われてしまい、苦し紛れに「畳んでこっちへとっとくじゃわい」というのがサゲになっている。
また、上方では、隠居から十徳を無理に借りていって、みんなに見せるが、東京は十徳を着た隠居が通りかかる。前座のやるような短い噺ではあるが、東西でこれだけの違いがあるのは興味深い。
八五郎坊主《はちごろうぼうず》
長屋の住人八五郎は、東京落語の人気スターで、数多くの噺に出演している。その八五郎が題名についているので、東京の落語みたいだが、純粋の上方落語である。また、上方落語には出て来ない八五郎が、どうしてこの噺にだけ出て来るのだろうか。ほかの名前でもよさそうなものだが。
名前の読み方を忘れて、人に読んでもらうといろいろな読み方をされるというところは、「平林」と同工異曲である。上方にも「平林」があるので、おそらく「平林」にヒントを得て作られた噺であろう。江戸時代の小咄に、原話と思われるものは見つからない。
百生は、この録音では法春「ほおばる」と読んだところで切っているが、この続きがまだあって、次は春を春日の「かす」だとして「ほかす」と読む。百生はここで切ったこともあった。最後は「のりかす」と読み、「のりかす?そうかも知れんわ。和尚さんがするなりつけよった」でサゲる。百生はこのサゲまでやったこともある。
このサゲは、坊主が八五郎の頭を剃るとすぐに名前をつけたと言う意味と、糊は摺るとすぐつけると言う意味がかけられているのだが、最近は糊を摺ったりしないので分かりにくい。むしろ調子で聞かせてしまう百生にとって、分かりにくいサゲなどどこで切ってもよかったのではなかろうか。
天王寺詣り《てんのうじまいり》
純粋の上方落語で、笑福亭松鶴代々のお家芸であった。だから以前は松鶴に遠慮して、他の落語家は地方へ行った時以外では、高座にかけなかったものである。最近は、多くの落語家が遠慮なくやっている。
別名を「犬の引導鐘」という。この題の由来は、百生のを聞いただけでは分からない。百生は、阿呆陀羅経のところで切っているが、実はまだ続きがある。最後までやる時は、最初の犬が殺されたというところで、「クワーンというたがこの世の別れ、無下性《むげっしょう》(乱暴)には殴れんもんやなぁ」という言葉を仕込んでおく。賑やかな境内の描写の後、引導鐘を撞く。鐘の音がクワーンというと「ああ、無下性には殴れんもんやなぁ」でサゲる。
百生はこの噺を、四代目松鶴の高座を聞いて覚えて、地方回りの時だけやっていたが、戦後五代目松鶴が亡くなってからは、大阪や東京でも高座にかけた。自分で工夫したところは、大阪寿司を作るところを、江戸のにぎり寿司に、のぞきからくりも八百屋お七や高橋お伝を不如帰《ほととぎす》に変えたのと、阿呆陀羅経のチャカポコを口と手で調子を取るようにした点である。また、放送ではやらなかったのでこの録音にはないが、日本三鳥居のところで、「ここの坊さん、ウイスキー作ってんのんか」というクスグリも百生の考案である。
サゲまでやっていないのは、時間の関係だけではなくて、盛り上がったところで切ったほうがよいとの考えからである。
Last modified: Thu Jun 6 17:18:13 2002