| 『富士詣り』 | 13:16 | 昭和39年10月文化放送音源 |
| 『呑める』 | 14:57 | 昭和39年5月文化放送音源 |
| 『一目上がり』 | 10:19 | 昭和42年2月文化放送音源 |
| 『後生鰻』 | 11:10 | 放送日不明文化放送音源 |
地味で淡々とした口調ながら、骨格のしっかりした芸で、江戸前の噺を聞かせた小圓朝は、本名を芳村幸太郎といい、明治二十五年八月八日に東京・下谷で生まれた。父は三遊亭圓朝門下の二代目小圓朝、祖父は圓朝の兄弟子に当たる三遊亭圓麗で三代続いての落語家である。
十五歳の明治四十年に、父の門人となって落語家のスタートを切る。付けられた芸名は朝松で、一年ほどで二つ目に昇進し、小圓治と改名した。父の小圓朝が、落語家の月給制度導入に失敗して借金を作ったため、その穴埋めに父と共に二年ばかり旅回りを経験する。
東京に戻って、大正六年二月、橘家圓之助で真打ちに昇進した。まもなく四代目橘家圓蔵の弟子として預けられる。同十一年五月、四代目三遊亭圓橘を襲名した。翌十二年に父の小圓朝が亡くなり、昭和二年三月、父の名を継いで三代目小圓朝となる。
昭和十八年五月、六代目一龍斎貞山のすすめで船勇亭志ん橋と改名したが、戦後の二十二年三月、小圓朝に戻った。
昭和二十年代後半から、民放ラジオが増えて、落語の放送が急増し、三十年代前半までは、落語番組が花ざかりだった。レパートリーが多い小圓朝は、各局から声がかかり、滑稽噺を主体にひんぱんに出演し、大活躍した。
四十二年七月に脳出血で倒れ、以後病床にあって、高座に復帰することなく四十八年七月中一日に亡くなった。八十歳だった。
基本のしっかりした芸で、持ちネタも多いので、多くの落語家に噺を教え、それが今日に伝わっている。また東大落語研究会の学生に実技指導を十数年行い、稽古をつけてもらった東大生は百人を越える。
門下には、三遊亭圓之助、六代目三遊亭圓橘がいる。
富士詣り《ふじまいり》
江戸時代には、講というものを作って、団体で山登りをした。信仰ということになっているが、内容は現在のツアー旅行のようなもので、当時のレジャーだった。
それを題材にした落語では、「大山詣り」がよく知られている。それに比べると、この「富士詣り」は、やり手も少なく、あまり聞く機会がない。「大山詣り」が、旅行全体の流れを追っているのに比べて、この噺は旅の一場面だけを描いており、それだけ軽くなっているからであろうか。
小圓朝は「先達つぁん、お前のおかみさんだ」で切っているが、もう少し続きがある。この後頭が痛くて気持が悪いと言い出す者がいる。「初山だから、お山に酔ったんだろう」「酔うわけですよ、ここはちょうど五合目です」とサゲる。酒の五合と、山の五合目をかけたサゲだ。小圓朝が戦争中に七代目三笑亭可楽からこの噺を教わったときは、サゲまであったのだが、面白くないサゲなので、いつもその前の盛り上がったところで切っていた。
明治時代に、初代三遊亭圓遊がこの噺の速記を残している。それによると、大便を紙の上にして、それを袂へ入れてしまう。「大便を袂へ入れるようじゃ、お前は山に酔ったな」「ヘエ、ここが五合目でございます」とサゲている。汚らしい改作だ。
呑める《のめる》
別題を「二人癖」という。というより、この題のほうが多く使われた。古くは四代目橘家圓喬のレコードや三代目柳家小さんの速記、近年では三代目三遊亭金馬、十代目金原亭馬生、上方の桂米朝と、いずれも「二人癖」でやっていた。一時は、前座、二つ目まで、よく高座にかけていたが、最近はどういうわけかあまり聞かれなくなった。
明治の末に吹き込まれた圓喬のレコードを聞いてみると、サゲが違っている。「横町の伊勢屋の若旦那、知っての通りの変り者だぁな、雪の降る日に履くんだてんでな、一本歯の足駄を誂えられたんだ」「そんなもの履きゃのめるだろ」「おっと、差っ引いとこう」というのである。この「のめる」は、前へつんのめるの意味だ。しかしこれは、圓喬独特のサゲだったようで、同じ時代に活躍した三代目小さんの速記では、小圓朝と同じく「一杯飲めらぁ」のサゲになっている。
上方にも古くからあった噺で、こちらは将棋で仕返しをするのが四、五日後のことになっていたという。しかし、この形はいまは誰もやらなくなり、米朝も東京式にすべて一日のこととしてやっている。
小圓朝派この噺をよくやっていた。しかしやる人が他に大勢いたので、特に得意ネタというほどのことはなかったのだが、今改めて聞いてみると、とても面白い。こういう目立たないところに、小圓朝はうまさを見せていた。
一目上がり《ひとめあがり》
隠居に教わったことを、よそへ行ってやって失敗するというのは、落語、特に前座噺によくあるパターンである。この噺もその一つだが、その失敗が一度で終わらずに、次々と一目ずつ上がって行くのが、他にはない特長だ。
古くからあった噺で、原話と見られるものが江戸小咄に多くある。安永二(一七七三)年に出た『再成餅《ふたたびもち》』に載っている「掛物」を始め、文化五(一八〇八)年刊『一九ばなし坤巻』の「品玉」、天保七(一八三六)年京都版の洒落本『意気客初心』などで、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中にも取り入れられている。
別題を「七福神」というように、小圓朝のやっている七福神でサゲるのが通常の型であるが、六代目春風亭柳橋はもう少し続けて、八五郎が道具屋に呼び止められ、「古池やかわず飛び込む水の音」と書いた軸を見て「結構な八ですな」「いや、芭蕉の句だ」までやっていた。
前記江戸小咄の「品玉」は、もっと続いている。芭蕉の句の後、友達のところへ寄ると、天文の図を広げて見ている。「むつかしい十を書いたの」「いや、十一屋の書かれたの」でサゲる。その代わり七福神は登場せず、一休の語の後、すぐ道具屋へ行って六と言おうとしたが、道具屋に「質の流れでございます」と言われたので「しからばあの掛物は八であろう」「いや、あれは芭蕉の句でござります」となっている。
七で終わる場合も、七福神のサゲの他に、「質の流れを買ったのだ」「頼朝の七騎落だ」「竹林の七賢人だ」「御維新の七卿落だ」などがある。これらは演者が変えようとして考え出したものだろう。
後生鰻《ごしょううなぎ》
信心というものは、昔は今より盛んで、信心深い人がたくさんいた。その信心を扱ったのがこの噺だが、信心を奨励するのではなく、変な信心を皮肉っている。生き物を殺してはいけないといって、俎の上の鰻を買い取って助けても、他の鰻が助からないことに気が付いていない。だから鰻屋のカモにされる。まして最後に赤ん坊を川へ放り込むなんて、信心どころか残酷なことである。こういうのは信心ではありませんと、笑いの中で軽蔑しているのである。
いくら警告の噺だといっても、赤ん坊を川へ放りっぱなしでは後味が悪い。そこで小圓朝は、サゲの後に「凝っては思案にあたわずというお笑いでございました」と付けていた。
小圓朝は、若いころ品川の圓蔵と言われた四代目橘家圓蔵の身内になっていたことがある。その時に、圓蔵から教わったのが、この噺だ。短いので、寄席で時間のない時には、よくこの噺をやっていた。寄席へいくたびにこの噺を聞かされ、また「後生鰻」かとがっかりしたこともある。それだけに口馴れていた。
上方では「淀川」という題で、万延二(一八六一)年の桂松光のネタ帳『風流昔噺』にすでに載っているから、古い噺だ。それが明治になって、東京へ来たと言われている。上方では、現在やり手がなくなっている。
Last modified: Tue Jun 4 16:03:46 2002