| 『皿屋敷』 | 13:35 | 昭和38年6月9日文化放送音源 |
| 『片棒』 | 13:09 | 昭和38年10月26日文化放送音源 |
| 『不動坊』 | 13:05 | 昭和39年9月5日文化放送音源 |
| 『六尺棒』 | 10:18 | 昭和42年2月10日文化放送音源 |
現代語を織り交ぜた独特の口調で、多くの人を笑わせた文治は、本名高安留吉、明治二十五年九月七日、東京は日本橋小伝馬町で生まれた。錦城中学を一年で中退し、以後そば屋、乾物屋、油屋などに奉公するが、長続きせず、父親の魚屋を手伝いながら、天狗連と呼ばれる素人落語家になる。当時の仲間に、後の八代目三笑亭可楽がいた。
大正四年、四代目橘家圓蔵に入門して、咲蔵を名乗る。二十三歳の弟子入りは、当時としては遅い。大正七年、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下に移って、翁家さん好となった。まもなく立花家橘之助一座に加わって旅に出たが、途中で大阪へ逐電する。大阪では、二代目桂三木助門下となって、桂三木弥を名乗る。ここで大阪の噺をたくさん仕入れたのが、後年役に立つ。
大正十年、東京へ戻って文治門下に復帰する。翌十一年十一月、桂文七と改名したが、まもなく三代目柳家小さん門下に移って、十四年十月柳家さん輔で真打ちに昇進した。昭和九年四月、前師の名翁家さん馬の九代目を襲名する。この時、八代目さん馬は北海道の小樽に居住していたので、東京と小樽に同時にさん馬がいた。
戦後の落語ブームで、昭和三十二年に文化放送の専属となる。三十五年四月、九代目桂文治を襲名。この時本人はさん馬のままでよいというのに、まわりが金を使わせようと、寄ってたかって襲名させてしまったという逸話がある。
五十一年一月に脳溢血で倒れて以来、病床にあり、五十三年三月八日、八十五歳で亡くなった。
古典落語でも、「エデンの東」「南ベトナム」を初め、新しい言葉が飛び出すユニークな芸で、「大蔵次官」「岸さん」などの新作も手掛けた。自らケチと称するほどのしまりやだったが、人に迷惑はかけないので、仲間からも慕われた。
皿屋敷《さらやしき》
皿屋敷伝説は、全国に多くあるそうだが、中で有名なのが、播州(兵庫県)姫路の皿屋敷である。これを元に、江戸時代には浄瑠璃『播州皿屋敷』が作られ、後に歌舞伎化された。大正五年には、岡本綺堂の新作『番州皿屋敷』が書かれている。
この噺は、この伝説をふまえている。すでに文化四(一八〇七)年の喜久亭寿暁のネタ帳『滑稽集』に「さらやしき 明日休」と出ているから、古い噺だ。天保のころ(一八三〇〜四四)に出た小咄本『しんばし落はなし』にも、「皿やしきおきくがゆうれい」と題して、この噺の原話が載っている。サゲは現在のように、十八枚まで数えるのではなく、九枚までを二度数えて「明晩は休みでござります」とサゲている。
このように、古くから江戸にあった噺だが、現在残っているのは、すべて上方からきたものだ。それも、すべて二代目桂三木助がもとになっている。現在上方で口演されているのは、三木助から橘ノ圓都、四代目桂米団治を経て、桂米朝、桂春団治に伝わっている。東京ではこの噺をやる人が少なく、六代目三遊亭圓生もめったにやらなかったが、二代目三木助から直接教わった。
文治のは、大正時代に文治が大阪へいって三木助の弟子になっていたころに、直接教わったものである。場所は江戸の番町に変えている。
片棒《かたぼう》
ケチを自認していた文治によく合った噺である。「ケチの噺なら他に負けないよ」といった意気込みも感じられる。
ケチの噺は多いが、これは少し形が違っている。ケチ比べ、あるいはケチの金を使って困らせるものではない。三人の息子に問題を出して、その答えの面白さを楽しむという、グリム童話にでもありそうな形である。
これも古い噺で、宝永二(一七〇五)年に出た『軽口あられ酒』の「気ままな親仁』が原話である。これは、父親が、子供に「わしが死んだら、金を使わずに葬式をしろ」といい、乗り物も金がいる、担ぐのも人を二人雇わなければならないからだめだと断って、「おれが死んだら、徒歩で行こう」とサゲている。また、「皿屋敷」の解説でも紹介した『滑稽集』にも、「はや桶 あとぼうはおれがかつごう」とある。
年代設定の難しい噺だ。葬式は、年とともにやり方が変わってきて、古いままだと分からなくなる。適当に新しいことを入れて行かなければならない。文治の現代語はそれを助けている。
不動坊《ふどうぼう》
「不動坊」という題がついているが、これが何を意味するのか、文治の噺を聞いても分からない。文治が、登場人物の名前を変えた上に、噺を前半で切ってしまっているからである。
不動坊(詳しくは不動坊火焔)というのは、講釈師の名前である。お滝という女(この名だけは、文治も変えていない)の亭主だが、この噺ではすでに亡くなっていて、一度も登場しない。死んでしまって出て来ない人間が題名になっているのは、他に「らくだ」があるが、「らくだ」の場合は死体が出て来る。不動坊は、幽霊と称するものが後半に出て来るだけである。
この不動坊を、文治は吉兵衛という小間物屋にして、北海道へ小間物を卸に行って、函館の旅館で心臓麻痺で死んだと設定している。未亡人になったお滝と結婚するのが、金貸しの利吉という五十八歳の男。お滝と一緒になれると決まって、有頂天になって銭湯へ行き、いろいろ滑稽をやらかすところで終わっている。サゲは「軽石で顔をこすっちまった」。「湯屋番」の後半とよく似た形になっている。
本来の噺は、この後長屋のひとり者たちがこの結婚をねたみ、婚礼の晩にいやがらせに不動坊の幽霊を出そうということになる。幽霊役は噺家。鳴り物につれて、屋根からひもで下がって来たが、お滝の亭主は驚かない。幽霊はやり返されて、「宙に迷っているんだな」といわれ「宙にぶらさがっております」とサゲる。
元来は上方の噺で、幕末か明治初年に、林家菊丸という人が作ったと言われている。それを明治の末に、三代目柳家小さんが東京へ持って来た。三代目のには、銭湯で独り言を言うくだりは省略されていた。文治は、独自に上方で覚えたので、ここをふくらますことが出来たのである。
六尺棒《ろくしゃくぼう》
道楽息子と父親の争いを描いた噺だが、結局息子が父親をからかった形で終わっている。およそ教育的でないが、落語がお説教じみては面白くない。
こういうのを喜ぶのは、日本に限ったことではない。これによく似た噺が、何とトルコの頓智噺『ナスレッディン・ホジャ物語』にあるのだ。「インドの仏教説話が、東西に分かれて流布したのかも知れない」と、武藤禎夫氏は『落語三百題』に書いている。
トルコの頓智噺は、こうだ。女房が、あまりよくない女どもと夜遅くまで遊んでいるのを知ったホジャが、遅く帰った女房を締め出した。いれてもらえない女房は、井戸に身を投げるといって、近くの井戸に大きな石をほうり込んだ。ホジャがびっくりして飛び出したすきに、女房は入れ違いに家へ入って戸を閉めてしまった。女房は「夜遊びばかりして、恥を知れ」と大声で中からどなる。聞いて駆け付けた近所の人達に、ホジャは頭を下げて「本当のことをご存じの方、どうぞここで言って下さい」
明治時代には、初代三遊亭遊三が得意にしていた噺。戦後は、五代目古今亭志ん生がよくやっていた。
Last modified: Mon Jun 10 12:36:37 2002