| 『旅の里扶持』 | 15:52 | 昭和46年9月28日TBS音源 |
| 『指切り』 | 28:19 | 昭和46年3月30日TBS音源 |
道具を使った怪談噺や、芝居噺など幅広い芸で、通に好まれた正蔵は、本名岡本義、明治二十八年五月十六日、東京品川で生まれ、三歳のときから浅草で育った。明治四十五年に三遊亭三福(後の三代目三遊亭圓遊)に入門し、三遊亭福よしと名乗る。扇遊亭金八と改めた後、四代目橘家圓蔵の内輪となり、大正六年二月に橘家二三蔵と改名して二つ目に昇進した。
大正八年四月、三代目三遊亭圓楽を襲名した。それまでの圓楽が三遊亭一朝と改名して、名前を譲ってくれたのである。このときはまだ真打ちではなく、翌九年六月に圓楽のまま真打ち披露をしている。一朝になった圓楽は圓朝の直弟子で、この人から「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」などの長編人情噺や、怪談噺、芝居噺を教わった。これを恩義に感じ、一朝を「おじいさん」と呼んで大事にして、昭和五年に亡くなるまで面倒を見た。
大正十一年に圓蔵が亡くなると、三代目柳家小さんの預かり弟子になった。翌十二年に三か月ばかり大阪へ行って、二代目桂三木助の世話になる。「唖の釣」「煙草の火」などを三木助から教わり、江戸の噺に直した。
東京へ戻って、四代目蝶花楼馬楽(後の四代目小さん)の内輪となる。大正十四年に、後の五代目古今亭今輔らと落語革新派を起こしたが、失敗してまもなく解散した。昭和三年四月、馬楽が小さんを継ぐと同時に、五代目馬楽を襲名した。
戦後の昭和二十五年五月、八代目林家正蔵を襲名、TBSの専属になって活躍の場が広がった。正蔵の名は、七代目正蔵の遺族から一代限りで借りていたので、七代目の息子の三平が亡くなったのを機会に、正蔵の名前を海老名家へ返し、五十六年一月に林家彦六と改名している。彦六でいること一年、五十七年一月二十九日に八十六歳で亡くなった。
晩年はゆっくりとした口調で、派手なところはないが、滑稽噺のほか人情噺、怪談噺、道具を使った芝居噺や古典風新作と、広いレパートリーに渡って聴かせ、芸のわかる人たちに支持されていた。
旅の里扶持《たびのさとぶち》
正蔵はレパートリーの広い人だったが、中でも一流作家の書いた文芸物は、独自の領域だった。この噺もその一つで、長谷川伸の書き下ろしである。
この噺は、活字では発表されていない。放送の台本として書かれたものだが、放送に使う前に、長谷川伸が正蔵にくれてやったのである。
正蔵から聞いた、そのいきさつはこうだ。平山芦江の法事の時に長谷川伸夫妻が見えていて、「君にいいもんがあるからあげるよ。正蔵が出て来る噺だから君に向いているよ。近いうちに取りにおいでよ」と言われた。正蔵はうれしくなって、その日のうちに長谷川宅へ行って貰って来た。「君の好きなようにやりなさい」と言われたという。
作家・平山芦江が亡くなったのは、昭和二十八年だから、この年に正蔵に手渡されたのだろう。内容は史実と違っていて、三代目正蔵は二代目の弟子ではなく、前名も正喬ではないが、そこはフィクションとして聞けばよいだろう。
原作では、最後のところで正蔵が新内の「蘭蝶」を唄うことになっていた。そこに但し書きがついていて「ここのところは誰がやってもうまく行かない」とあった。正蔵は、「それなら新内を習ってうまくなってやろう」と稽古を始めたが、やはりうまく行かず節をつけずにしゃべりでやっている。このほうが余韻があると、ほめられたそうだ。
指切り《ゆびきり》
「写真の仇討」の題で知られている噺だが、なぜか正蔵はこの題を使わず、「指切り」でやっていた。写真という明治以後の言葉を題にするのに違和感があったのかも知れない。
晋の予譲の故事が、噺の核になっている。晋は、中国の古い国名で、三世紀の後半から五世紀の初めまで存在した。正蔵が若いころ金杉のうさぎ亭という寄席でこの噺をやっていたら、髭をはやした老人が聞いていて「晋の予譲の故事は、しゃべった通りだ」と言ってくれたという。その人は、根岸に住む漢学者だった。後年の正蔵なら、その先生宅へ伺って、いろいろ教えを乞うたのだろうが、当時はそれほど欲もなかったので、それっきりになったそうだ。
時代の設定を、正蔵は明治の初年としている。それを、伯父さんは大小を差したことがあるが、主人公は士族だけど差したことがないという言葉で、さりげなく表現している。また、録音だけでは分からないが、写真を突くときは下に置いて突いている。そうでなければ血が出ない。正蔵らしい気配りである。
Last modified: Thu Jun 6 21:07:12 2002