| 『反魂香』 | 14:04 |
| 『今戸焼』 | 12:52 |
| 『三方一両損』 | 13:36 |
| 『りんきの見本』 | 12:39 |
独特の渋い語り口で、通人のファンを掴んでいた可楽は、本名麹地元吉、明治三十一年一月三日、東京で生まれた。天狗連と呼ばれるセミ・プロの生活を送った後、大正四年に初代三遊亭圓右の門に入り右喜松と名乗る。七年三橘と改名、まもなく七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下に移ってさん生から翁家馬之助で真打ちになった。さらに六代目春風亭柳枝門下となってさん枝、十三年に春風亭柳楽と改名した。柳枝の死後五代目柳亭左楽門下に転じ昭和十五年六代目春風亭小柳枝、二十一年八代目三笑亭可楽を襲名して、ようやく落ち着いた。
志ん生同様不遇時代が長く、名前と師匠を度々変えている。渋い芸風で、パッと派手なところがなかったからであろう。しかし可楽を襲名してからは、落語通の中にファンが多くなり、特にジャズメンの間では高く評価されていた。昭和三十九年八月に二十三日、六十六歳で亡くなった。
昭和三十年代になって、ラジオの落語ブームがやってくると、可楽も数多くラジオに出演した。そのため持ちネタを増やさなくてはならなくなり、廓噺なども手掛けるようになった。どの噺も、ぼそぼそとつぶやくように無表情で語るのだが、それに何ともいえない良さがあるというファンが多い。亡くなってからも、レコードやテープが愛好されている。
反魂香《はんごんこう》
香をたくと、死者の姿が現われるという迷信が、この噺の中核になっている。これは、中国の故事に由来している。漢の孝武帝が、李夫人の死を悲しんで、名香をたいてその面影を見るという反魂香の故事で、日本でも浄瑠璃や芝居によく使われている。有名なのは、人形浄瑠璃や歌舞伎で演じられる「傾城反魂香」で、「吃又」の別名で知られる。
浄瑠璃からヒントを得た噺は、上方に多い。この噺も、上方で古くから演じられている。上方では「高尾」の題が使われ、現在三代目の桂春団治が得意にしている。東京のは、これを移植したもので、、「高尾」の題を使わずに、「反魂香」としたのは、別に「高尾」という噺があるからであろう。
江戸時代は、香をたくと亡霊が出てくると本気で信じている者がたくさんいた。だからこの噺も、聞く者に素直に受け止められた。現在はそんなことを誰も信じないので、まず聞くものをその雰囲気へ引き込む必要がある。可楽と八代目林家正蔵(彦六)がいなくなってからは、やり手がいなくなったのも、そういう難しさがともなうからであろう。
今戸焼《いまどやき》
落語の中には、たわいのない噺でも特定の演者に限って面白く聴けるものがある。この「今戸焼」もその一つで、筋はつまらないのだが、可楽がやると実に面白かった。可楽のぶつぶつつぶやくような口調が、亭主のぐちにぴったりで、女房の声も長屋の雰囲気をよく出しているからである。それに女房が帰って来た時の、亭主の不機嫌な表情が実によかった。その表情が録音では見られないのは残念だ。
可楽以後、この噺を高座にかける者がいなくなった。かけてもきっと受けないだろう。それは前記のような理由のほか、今戸焼や福助が分かりにくくなったからでもある。
三方一両損《さんぽういちりょうぞん》
落語の形成で多いのは、サゲの部分の小噺が、ふくらんで一席になるケースであるが、この噺のように、講談からストーリーを持って来て、サゲをつけたものもかなりある。鼓の場合のサゲの多くは、とってつけたような拙劣なものだ。この噺のサゲも同様に言われているが、ダジャレも大岡と越前の二つが重なると、そう見くびったものでもない。こういうサゲの噺も貴重だと思う。
奉行が裁く落語を政談物といっているが、現実にはこんなささいなことを奉行が裁くわけがない。これはあくまでも落語、講談の中での奉行裁きで、これはこれで一つの型になっている。やはりお奉行様が出て来ないと、型がつかないのである。
この噺のもう一つの特長は、江戸の職人気質を見事に描いていることである。可楽の口調も、職人によく合っている。
りんきの見本《りんきのみほん》
古典落語のように見えるが、明治時代の新作で、益田太郎冠者の作である。この人については、前巻の「勘忍袋」のところで書いたので、省略するが、「勘忍袋」「かんしゃく」など、現在も残っている作品を書いている。
この人の作品をよく高座にかけたのが、明治の末から大正にかけて活躍した三代目三遊亭圓橘という人で、この噺も圓橘の速記が、大正元年十月号の雑誌「文芸倶楽部」に載っている。
その後、若いころの五代目古今亭志ん生もこの噺をやったが、戦後は可楽だけが演じた。それもめったにやらなかったから、貴重な録音といえる。
Last modified: Mon Jun 10 16:08:35 2002