| 『盃の殿様』 | 36:04 | 昭和39年3月31日東宝名人会実況盤 |
| 『猫定』 | 30:26 | 昭和49年4月4日ニッポン放送音源 |
文楽、志ん生と並んで、名人といわれた圓生は、本名山崎松尾。明治三十三年九月三日、大阪市内西区で生まれた。母と一所に幼いころ上京し、四代目橘家圓蔵の内輪になって、まもなく子供義太夫でデビューした。芸名は豊竹豆仮名太夫。明治三十八年ごろだという。落語家に転向したのは明治四十二年。橘家圓童と名乗った。
小圓蔵を経て、大正九年三月に橘家圓好で真打ちに昇進した。文楽より二か月早い昇進だったが、人気では及ばず、以後三十数年文楽の後塵を排することになる。同十一年二月に師匠の圓蔵が没し、義父の圓窓が圓蔵を襲名したので、同時に圓窓と改名した。さらに同十四年一月、義父の五代目圓生襲名とともに、師匠の名圓蔵を継いだ。
名前は大きくなったが、芸のほうはさっぱりで、人気が出ない。一時は踊りに転向しようかと考えたほどだったが、昭和十六年五月に圓生を襲名してからやや上向きとなった。終戦の直前に、志ん生と一緒に満州へ行き、二十二年三月に帰国、寄席に復帰した。まもなく「妾馬」で芸を悟り、それからは著しい進歩を見せた。三十年代には文楽、志ん生と肩を並べるようになったが、独演会でどんどん芸域を広げ、芸術祭賞を始め多くの賞を受けた。
四十年から四十七年まで、落語協会の会長を務めたが、五十三年六月、真打ちの乱造に反対して落語協会を脱退し、一問で落語三遊協会を結成した。五十四年九月三日、七十九歳の誕生日に心筋梗塞で急死した。
「遅咲きの大花」だった。志ん生も遅咲きだったが、それよりもさらに遅れ、売れ出したのは五十歳を過ぎてから。しかし人気が出てからは、今までの芸の蓄積を見事に生かして、文楽、志ん生亡き後は第一人者となった。祖の芸域は秘録、滑稽ばなしはもちろん、長編人情ばなし、芝居ばなし、音曲ばなしにも、きめ細かい芸を聞かせた。人情噺
「寄席育ち」などの著書や、レコード、テープも数多い。なかでもCBSソニー(現・ソニーレコード)から出した「圓生百席」は貴重である。
盃の殿様《さかずきのとのさま》
殿様が出て来る落語は、かなりある。そのほとんどが、殿様をからかったり、馬鹿にしたりしている。反骨精神の現れと見る向きもあるが、とにかくまともには扱ってもらえない。
この噺も、殿様のわがままぶりを描いて、笑いを多く取っているあたり、からかっているふしがないでもないが、明るく無邪気に描いている点が、他の噺と違う。特に圓生がやると、聴いていて楽しく、実に気持がいい。
圓生はこの噺を、二代目小さんの速記をもとに、さまざまな工夫をこらして仕上げた。二代目は禽語楼小さんといって、明治の中期に活躍した人。殿様の出て来る噺がうまかったという。明治三十一年になくなっている。その後何人かの人がやっていたが、禽語楼小さんのが一番面白いので、その速記を基本にして圓生は高座にかけた。橘家圓蔵時代だというから、昭和の始めであろう。
小さんのサゲは、「上野の勧業博覧会の美術館でようやく殿様へその盃をお渡し申しました」となっている。これは明治二十三年の勧業博覧会に引っかけた時事のサゲである。その後「今いっぺん行ってこい」というサゲが使われたが、圓生は自分で考えて「いまだに毎日探しているそうです」に変えた。どれもサゲらしいサゲではない。
猫定《猫定》
題名は、「猫の定吉」を詰めて、「猫定」になった。猫のつく題名は、「猫の忠信」が「猫忠」、「猫の久六」が「猫久」と、同じような詰め方をしたものが多い。
今でこそ、圓生の弟子や孫弟子がたまに高座にかけているが、圓生が活躍しているころは、他にやり手がなかった。圓生自身も、長いのでめったにやる気会がなかった。圓生以前にも、ほとんどやる人がいなかったようで、明治から大正にかけて活躍した初代三遊亭圓右がやったと言われているが、圓生は実際にやったのを聞いたことがないという。
圓生はこの噺を、昭和の始めに「大阪の馬生」といわれた五代目金原亭馬生から教わった。教わる直前まで、どんな噺だか知らなかったという。馬生以前のルーツは分からない。サゲもないし、人情噺風なので、おそらく講談から来たものではないかと思われる。五代目古今亭志ん生が晩年にやった「猫の恩返し」という噺と、筋立てが似ている。原典は同じなのかも知れない。
噺の眼目は、猫とばくちをやるところで、これは他の噺にはない特殊な場面だ。あとはお通夜になるまで、だれる場面が続く。ここで客を引っ張って行くのには、かなりの技術を要する。いわゆる「損な噺」で、やり手がいなかったのもそのせいであろう。
Last modified: Thu Jun 6 18:53:26 2002