| 『短命』 | 25:55 | 昭和38年5月31日東宝名人会実況盤 |
| 『万金丹』 | 28:37 | 昭和40年5月31日東宝名人会実況盤 |
落語家で始めて人間国宝になった小さんは、本名小林盛夫。大正四年一月二日、長野県に産まれ、東京で育った。小学生のころから剣道と絵が好きで、剣士になろうとしたが、体をこわしたためあきらめ、画家のほうもままならないので、それなら落語家になろうと、昭和八年に四代目柳家小さんに入門した。
「おまえは栗に似ているから」と名付けられたのが柳家栗之助。十一年に麻布第三連隊に入隊する。その年の二月二十六日、二・二六事件が起こった。この時、反乱軍に知らないうちに入れられて、警視庁を占領した。その罰の意味もあって、満州(現中国東北部)のチチハルに行かされる。
十四年に除隊して落語界に復帰、二つ目に昇進して柳家小きんと改名した。しかし十八年に再び兵隊に取られ、仏領インドシナ(現ベトナム)に行かされて苦労する。二十一年に復員して三度び落語界に復帰した。
二十二年九代目柳家小三治を襲名して真打ちに昇進、このころから、兵役による遅れを取り戻そうと、必死に噺の勉強をする。その甲斐あって、二十五年に師名小さんを継ぐことができた。
昭和二十年代後半から、ラジオの民間放送が始まって、落語の番組が増え、三十年代になると、ホール落語も増えて、落語ブームがやってきた。この時、一時代先輩の文楽、志ん生、圓生、正蔵、金馬、三木助らと肩を並べて出演し、すっかり大看板の貫禄を身に着けた。
以来四十数年、第一人者として活躍する一方、四十七年に圓生の後を受けて、落語協会の会長に就任し、平成八年八月に三代目三遊亭圓歌に譲るまで、二十四年の長い間その職にあった。平成七年には、落語家として初めての人間国宝に認定された。
その芸風は、三代目、四代目小さんの伝統を受け継ぎ、滑稽噺を主体とした落語の本道を歩んでいる。文楽、志ん生、圓生亡き後、落語界の頂点に立って、古典落語を導いてきた功績は大きい。
短命《たんめい》
別名を「長命」という。古くは「長生き」という題も使われた。短命では縁起が悪いと思われたり、差し障りがあったりする場合の題だが、サゲが割れないだけ、「短命」の方がよい。
艶笑落語の中に、この噺も入っているが、いわゆるポルノがかったバレ噺とは違う。やり方次第では、ポルノ調にならないこともないが、それでは味がなくなってしまう。
味で聞かせるといっても、今はその味が出しにくくなった。昔は「男女七歳にして席を同じうせず」なんて言ったくらいだから「手がさわって」などは大変なことだったろうが、今ではなんでもないことだ。それだけこの噺がやりにくくなったわけだ。特に小さんのように、しっとりと聞かせるやり方は今後姿を消し、爆笑落語に変化して残るであろう。その意味でも、貴重な録音である。
万金丹《まんきんたん》
上方の「鳥屋坊主」という噺を東京へ持って来たものと言われているが、かなり前のことで、明治前期にはすでに東京で演じられている。
東京でも上方でも、旅の噺とされているが、明治二十三年に二代目小さんが残した速記では、二人が旅をして坊主になるのではなく、道楽をし尽くした一人の男が、山寺で坊主になるという「こんにゃく問答」に近い設定である。これは二代目小さんだけの設定のようだ。
その後、明治の末から大正にかけて活躍した三代目蝶花楼馬楽も、この噺を得意にしていた。こちらは旅の噺になっている。これが四代目小さんに伝わり、それを五代目が聞いて覚えた。
サゲは二代目小さん以来伝わっているものだ。昔ののどかな旅と、寺を中心とした田舎の風情が笑いの中に巧みに描かれている。
Last modified: Thu Jun 6 20:03:57 2002